このような質問をうけたことがあります。「法事は勤(つと)めた方が良いのでしょうか。勤めなくても良いのでしょうか」と。この質問の意図するところは、法事を勤めないと何か不都合なこと、災いや祟(たた)りが起こるのでしょうか、ということでしょう。そこには、わが身や身の回りに起こるさまざまな問題の原因を、亡き人と結びつけ、すり替えてしまう人間の打算や傲慢(ごうまん)さが、見え隠れしてはいないでしょうか。
大阪の難波別院(なんばべついん ※)にこの言葉が掲示されたことがあります。私たちは、自分が迷っているなど思いもしないのです。私たちが思っている「ほとけさま」や供養、法事の在り方が間違いないと、何の疑いもなく思い込んでいることを迷いというのでしょう。迷いの中にどっぷりつかっている者の思いで、どうしてほとけさま(覚者/かくしゃ)の心を推し量ることができるのでしょう。そういう自分自身を一度も問うたことがないのではないでしょうか。親鸞聖人は、私たち、そして私たちの世界は「まことあることなき」と教えられます。
だからこそ、さあ帰りなさい。迷いの世界にとどまるべきではない。いのちの故郷へ帰りなさいと。いのちの故郷とは、「きらわず、えらばれず」という阿弥陀(あみだ)の本願(ほんがん ※)として教えられています。その本願の呼び声に耳を澄ます時、亡き人と新たなであいがひらかれるのです。
- 難波別院
- 東本願寺の別院
- 本願
- 全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い
渡邊 学氏
真宗大谷派 明正寺住職(新潟県)
小冊子『お盆(2012)』
(東本願寺出版発行)より
法話 2020 03