彼岸というと善導(ぜんどう ※)大師の「二河白道(にがびゃくどう)」の譬(たと)えを思い出します。ある旅人が西に向かって行くと突然火の河と水の河に出くわします。火の河は南に広がり、水の河は北に広がっています。私の住んでいる山形は夏は暑いし冬は寒い所ですので、私にとって火の河といえば灼熱の真夏を思い起こします。夏はちょっとしたことに腹が立ちイライラしてしまいます。そんな私に善導大師は「瞋憎(しんぞう)は火のごとし」と教えてくださいます。また冬は雪に覆われた底冷えに耐えながら、暖かさをむさぼりたいとの思いで鍋の具を奪い合った幼い頃を思い出します。これを「貪愛(とんない)は水のごとし」と教えてくださいます。まさに温かいごちそうを奪い合って兄弟の関係が冷たく冷え切った関係になってしまいます。
そして旅人は、その火の河と水の河との中間に白道を見つける、と描かれています。それが彼岸への道だろうと思います。
善導大師は続いて「中間の白道四五寸というのは、衆生(しゅじょう ※)の貪愛・瞋憎の中に清浄願心(しょうじょうがんしん)を発(おこ)すに喩(たと)えている」と説明しています。「貪愛・瞋憎の中に」とは、まさにその通りだと思います。春の彼岸の時は、これまでは「やっと寒い冬が終わった」と思っていましたが、そうでなくて「これからあのイライラするような暑い季節がやってくる。その中で私はどう生きるのか」と、その中に身を置いて考える時ではないのでしょうか。秋の彼岸もまた同じことです。
私たちの人生は楽しいことばかりではありません。人は皆いろんな苦しみや悲しみをもって生きています。でも、人は苦しみや悲しみから逃げて幸せになるのではなく、苦しみ悲しみの中に救われていく道があることを示してくださっているのです。
- 善導(613~681)
- 中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
- 衆生
- 生きとし生けるもの
『観経疏(かんぎょうしょ)』善導
榊 法存氏
真宗大谷派 皆龍寺住職(山形県)
小冊子『お彼岸(2018)』(東本願寺出版発行)より
教え 2020 03
料理番組などで、「タマネギを微塵(みじん)切りにして…」と言いますね。この「微塵」は仏教語です。意味は「目で見えるもっとも小さいもの」です。親鸞聖人は「この如来(にょらい)、微塵世界にみちみちたまえり」(『唯信鈔文意/ゆいしんしょうもんい』)と語ります。
「この如来」とは阿弥陀(あみだ)如来のことで、この世界のどんな小さな存在にも阿弥陀さんの悲愛が降り注いでいるという意味です。その根拠として『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』(行巻)では、
「諸天(しょてん)・人民(にんみん)・蜎飛(ねんぴ)・蠕動(ねんどう)の類、 我が名字を聞きて慈心(じしん)せざるはなけん」
と述べます。「諸天・人民」とは、人間などの存在のことですが、「蜎飛・蠕動」とは、細かい羽虫や地面をはう蛆虫(うじむし)などのことです。もしそれらの生き物が「慈心せざるはなけん」というのは、「それらの生き物が温かい喜びのこころに満たされなければ」という意味です。ここに人間だけが救われれば、それでよしと考える傲慢(ごうまん)さを批判しているのです。阿弥陀さんは、人間だけでなく、ミミズやボウフラまでも、救いの対象にされている如来です。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2020 03
このような質問をうけたことがあります。「法事は勤(つと)めた方が良いのでしょうか。勤めなくても良いのでしょうか」と。この質問の意図するところは、法事を勤めないと何か不都合なこと、災いや祟(たた)りが起こるのでしょうか、ということでしょう。そこには、わが身や身の回りに起こるさまざまな問題の原因を、亡き人と結びつけ、すり替えてしまう人間の打算や傲慢(ごうまん)さが、見え隠れしてはいないでしょうか。
大阪の難波別院(なんばべついん ※)にこの言葉が掲示されたことがあります。私たちは、自分が迷っているなど思いもしないのです。私たちが思っている「ほとけさま」や供養、法事の在り方が間違いないと、何の疑いもなく思い込んでいることを迷いというのでしょう。迷いの中にどっぷりつかっている者の思いで、どうしてほとけさま(覚者/かくしゃ)の心を推し量ることができるのでしょう。そういう自分自身を一度も問うたことがないのではないでしょうか。親鸞聖人は、私たち、そして私たちの世界は「まことあることなき」と教えられます。
だからこそ、さあ帰りなさい。迷いの世界にとどまるべきではない。いのちの故郷へ帰りなさいと。いのちの故郷とは、「きらわず、えらばれず」という阿弥陀(あみだ)の本願(ほんがん ※)として教えられています。その本願の呼び声に耳を澄ます時、亡き人と新たなであいがひらかれるのです。
- 難波別院
- 東本願寺の別院
- 本願
- 全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い
渡邊 学氏
真宗大谷派 明正寺住職(新潟県)
小冊子『お盆(2012)』
(東本願寺出版発行)より
法話 2020 03
-
「死者」という問題を考えるにあたって、私の友人の死があります。彼は出版社の編集者でもありました。その彼が40代で突然亡くなった。とても大切な人だったので、なかなかその穴が埋められず、上の空という状態が続いていたんです。
ある日の深夜、翌朝までにどうしても仕上げないといけない原稿があり、しかしながら翌朝も学校の授業で朝が早い。とても恥ずかしい話ですが、まいったなと思いながらざっと書き飛ばしてしまった。早く寝ようと思って、メールの送信ボタンをぽっと押そうとしたんです。しかし、指が止まって押せなかった。どうしてかというと、1カ月前に亡くなった彼に見られているという感覚があったんです。霊的な話ではなく、何かのまなざしをふっと感じたんです。そうして原稿を見直すと、本当につまらない原稿だった。せっかく新聞記事の場所をもらっているのにと思い返し、そこから書き直したんです。
結局朝方まで時間を要してしまったんですが、作業に要した時間を振り返り思ったのが「ああ、そういうことか」と。僕は彼と出あい直したんだと思ったんです。どういうことかというと、生きている時にこういうことはなかった。その彼とは、深夜まで一緒に深酒をしたり、その後にラーメンを食べながらばか話をしたり。けれども次の日には覚えていないという、そういう付き合いをしていた友人なんです。けれども彼は、亡くなってはいるけれど僕にふっと、倫理的なまなざしを投げ掛けてくる。「それでいいのか」と。そして僕は原稿を書き直した。
その時に、彼は死者となって存在しているんだと思えた。いなくなってしまったという空洞に私はずっと苦しんでいたんですが、死者となって存在しているその彼と一緒に生きていけばいいと思ったんです。彼との対話というのは、言葉にならない次元の言葉で何か対話をしている。そういう関係があるんだとしたら、彼はいなくなってはいないと。私なりにすとんと落ちて、自分なりに納得ができた。二人称の死というのはつらいです。しかし、その人たちと一緒に生きていくという、「出あい直し」という場面が必ず来る。
「死者と共に生きていく」というのは、私は非常に重要なことなんじゃないか。そして、死者という存在を忘れた世界というのは、とても危ない世界なんじゃないのかと思っています。私たちは不完全な人間です。自分たちが一番高みに立っていると思ってしまえば、おごり高ぶり、何でもかんでも自分たちの都合でやってしまう。それをしっかりといさめる存在でもあるのが、私にとって「死者」という問題であり、同時に仏教の役割だと思うんです。
中島 岳志氏
政治学者
第14回「親鸞フォーラム」より
著名人 2020 03