物は豊かになり、快適な文化生活を営みながら、何故、私たちの心は暗いのでしょうか。社会の歪みは自分ではわかりません。それは弱いところに現れてきます。それが児童虐待や育児放棄、家庭内暴力、尊属殺人、自殺などの悲しい出来事となって現れてきているのではないでしょうか。
書家の相田みつをさんの言葉に、「弱きもの人間 欲ふかきものにんげん 偽り多きものにんげん そして人間のわたし みつを」があります。
この言葉には単なる人間を批判した言葉ではないと思います。人間であることを念ずれば念ずるほど、見えてきた人間の姿でありましょう。念ずる心がなければ、その姿は見えてきません。人間の喜びも悲しみも、人間であることを念ずるところから見えてくる世界であります。
では、いったいどうしたら「人間であることを念ずる」事ができるか。それはたいへん重要な問題であります。日常生活の中で、努力して求めることも良い事でしょうが、なかなか思うように見えてきません。しかし、「見ようとしても、なかなか見えない」その自覚こそ大切ではないでしょうか。さまざまな人間関係のなかにあって、私たちはその自覚を見失っているのではないでしょうか。
本願寺八代蓮如上人(れんにょ ※)のお言葉に「人のわろき事は、能(よ)く能くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり」というお言葉があります。他人の悪い事はよく目につくが、自分の悪い事はなかなか自覚できない、ということではないでしょうか。
「もし、少しでも自分が悪いと気がついたなら、それはよくよく悪い事の故、気付いたことであるから、心をあらためて人の云う事を正しく聞きましょう」と語られています。私たちは自分の悪い事は、自分自身ではなかなか気付くことはできません。そうした、無自覚のわたしを無自覚であったと知らしめてくださるはたらきがお念仏(ねんぶつ)であります。
- 蓮如
- 室町時代の浄土真宗の僧侶
『蓮如上人御一代記聞書』(蓮如)
伊奈 祐諦氏
真宗大谷派 安楽寺住職(愛知県)
ラジオ放送「東本願寺の時間」より
教え 2020 07
ひとは大変な苦労をしたとき、「四苦八苦したなぁ」などと漏らします。「四苦八苦」はもともと仏教語です。「四苦八苦」とは「①生苦(しょうく)、②老苦(ろうく)、③病苦(びょうく)、④死苦(しく)、⑤愛別離苦(あいべつりく/愛するものと別れる苦しみ)、⑥怨憎会苦(おんぞうえく/憎しみ合う苦しみ)、⑦求不得苦(ぐふとっく/欲しいものが手に入らない苦しみ)、⑧五蘊盛苦(ごうんじょうく/人間存在そのものの苦しみ)」のことです。たまたま運が悪かったから「四苦八苦」に出あうわけではありません。「四苦八苦」にあわないひとは、この世に一人もいないということです。そこで絶望するか、そこから仏道を求めるかの違いだけがあるのです。
お釈迦さまは「老・病・死を見て世の非常を悟る」〈『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』〉と語られています。老・病・死とは、まさに「四苦八苦」を意味しています。突き詰めて人間のいのちを見つめれば、人間の死の根本原因は「誕生(生)」にあるのです。死の条件は、病気や事故などがありますが、根本原因は「生」以外にないのです。お釈迦さまの求道は、この人間の生々しい現実をごまかさなかったところから始まります。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2020 07
友人の結婚披露宴に出席したときのことである。新郎である友人側の主賓から、次のようなメッセージが贈られた。
「新郎には、自分の両親と一緒に暮らすことになる新婦の側に、いつも立ってほしいと思います。もしあなたが自分の両親の側につくのなら、三対一になります。そのような状態で『共に仲良くしよう』と言ったとしても、それは、自分たちの在り方や考えに同化せよ、という意味になってしまいます」。
私たちが「共に」と声高らかに言うとき、無意識のうちにマジョリティの側に身を置き、マイノリティに対し、同化を迫ることになる。私の言う「共に」が、他者にとって別の意味になる。そうしたことが往々にしてあるのだと、メッセージを聞いて強く感じた。
近年、分断や排除をはらむ様々な事件や主張をうけて、共に生きることの大切さが叫ばれている。世の中では、以前に増して「共に」「つながり」といった言葉が使われているように思う。注目を集める凄惨な事件でなくとも、日常の些細(ささい)な出来事を前に、「なぜ共に在(あ)れないのか」という気持ちが、私自身に湧(わ)くこともある。
そのとき、「共に生きよう」と発信することは重要であろう。しかしその「共に」は、他者の在り方や考えを、自らの都合に合わせて変えようとするものになっているのかもしれない。
親鸞聖人の語られる「御同行」「われら」とは、人々に同一の考えを求めることを意味するのではない。それは、御念仏(ねんぶつ)の教えによって、私たちが一人ひとり異なり、傷つけ合ってやまない存在であると深く知らされた言葉ではないか―。「共に」が求められる世の中だからこそ、その言葉が私の口をついて出たとき、立ち止まって考えたい。
難波 教行氏
真宗大谷派 教学研究所研究員
『真宗』(東本願寺出版)
「教研だより№149」より
法話 2020 07
児童文学作家の灰谷健次郎氏は『太陽の子』という小説の中で、「人間が他の動物とちがうところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところ」「だからつらくて苦しい」「いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まる」と書いています。灰谷氏は「人間とは何か」を語っているのだと思います。つまり、人が人であり続けるためには、何人の他者が自分の中に住んでいるかということで決まるのです。しかし、私たちは、その他者を追い出し、苦しさを回避してきたために人間関係が希薄化してきたのだと思います。
今回、新型コロナウイルスの感染拡大の中で、トイレットペーパーが無くなるということが起きました。不正確な情報の拡散が原因といわれていますが、個人による買い占めが起こったのです。まさに、自分さえよければいいという行動と言えるのではないでしょうか。無くなったのはトイレットペーパーではなく他者性です。自己保身のつもりが、実は自らを一番危険なところに追いやっているのです。新型コロナウイルスは、いずれ解決しますが、他者との関係性を失うという病の方こそ、私たちは問わなければならないと思うのです。
奥田 知志氏
NPO法人「抱樸」理事長
同朋新聞2020年5月号
「人間といういのちの相」より
著名人 2020 07