「因縁(いんねん)をつける」など、ちょっと物騒(ぶっそう)な使い方もありますが、もともと「因縁」は仏教語です。物事が成り立つ直接的な条件を「因」と言い、間接的な条件を「縁」と言います。例えば花が咲くための「因」は種ですが、「縁」は日光や水となります。その「因と縁」が関係し合って花が咲きます。この世のあらゆる出来事は「因縁」によって成り立っていることを仏教は教えます。
ところが、その「因」を突き詰めていくと、たとえ種であっても、種を生みだした前の世代があり、それを遡(さかのぼ)っていけば、やはりすべては「縁」で成り立っているのです。決してもともとの「原因」が実体的にどこかにあるわけではありません。それは世界を分析して事実を述べているに止まりません。今、私が人間としての生命を得たことすら、何十億年にも渡る「因縁」の結果としてあるのです。それは自分の「思い」を超えた不可思議(ふかしぎ)な事実です。人間に生まれたいと思って人間に生まれた人間はひとりもありません。気が付けば、「思い」を超えて、この世に唯一無二の存在として、自分は存在せしめられていたのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2020 12