先祖と言っても、もともと多くの日本人の先祖観は漠然としたものでした。祖父・祖母、曾祖父・曾祖母くらいまでの意識です。家族形態が変化して単独・夫婦だけの世帯が増えて親子が断絶してしまった現代、ますます先祖という観念は希薄になり、そして死者観念は個人化していくでしょう。高齢化と長寿社会は「老」と「病」が結びついて「介護」「死」の問題を引き起こしました。こうした社会を生きる私たちは、自らの人生と死を無意味化させたくないので、「老いをいかに生きるか」「いかに死ぬか」と考えてしまいます。しかし、死後のことまでは考えられないのが現実です。残された者は、死者に意味を見いだせず、死を受け入れることができないでいる状況です。ですから、生者と死者が交わることはできないでしょう。「死」が世俗化して意味を喪失し、「仏」にも「ホトケ」にもなれません。儀礼も行われなくなれば、限られた時間だけの「追憶」しかありません。追憶は「救い」ではありません。
死者と生者の関係、個人化し世俗化しすぎた社会。一人の人間として、生きることと死ぬということはどういうことなのか、意味の復権と創造が求められています。「仏教行事」という名のもとに行われてきた日本人の盆行事。これからお盆はどこへ行くのでしょうか。
蒲池 勢至氏
真宗大谷派 長善寺前住職(愛知県)
『お盆のはなし』(法蔵館)より
法話 2020 08