遊戯の「遊」は遊びまわるとか、子どもの遊び、大人の遊び、また遊び人という言葉もあります。また、遊戯の「戯」は、たわむれる、ふざける、じゃれつくといった意味に理解され、戯言(たわごと)などと使われたりします。このように文字一つひとつの意味から考えてみますと、遊戯とは現実に身を置かず適当に遊ぶというふうに受けとられてしまいがちです。しかしこの言葉は、実は仏教語なのです。「遊戯」とは「ゆげ」と読みます。
遊戯の「遊」は自由自在であること、「戯」は実は「無礙(むげ)」の意で、さまたげ(礙)が無く自由であることなのです。たわむれではありません。
したがって遊戯とは、あれこれとさまたげばかりの状況にあっても、その真っただなかに身を置いて、いかなるさまたげからも束縛されず自由に活動することを意味します。そのような生き方ができたら、人生どれほどすばらしいかわかりません。しかし私たちは、いつもさまたげに邪魔されて不自由な境遇を恨みます。
しかし、よくよく考えてみますと、人生のさまたげとは何なのでしょうか。あの人のせい? この人のせい? いろいろとさまたげを考えますが、もともと何がわが身をさまたげているのか、さまたげの正体は何なのか、実は誰も確かにはわかっていません。ですので私たちは、わが身をさまたげているものが本当は何であるかを知りたいのです。知ってどこまでも自由に生きることを心底求めているのです。
そこで、この私たちの自由を希求する願いに応えて、阿弥陀(あみだ)さまはこの濁世(じょくせ)にはたらきます。
「煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す(※)」
阿弥陀さまは人生というさまたげ多き煩悩の林のただなかにあって、自由に活動され(遊)、私たちそれぞれの苦悩の現実に応じて自在にいろんな姿をとられて(戯)、ご説法くださっているのです。どこまでも不自由な私たちの現実に無条件に寄り添い、いかなる世界をも排除しない阿弥陀さまの活動こそが真実の遊戯であり、恵みなのです。遊びがいたるところで商品化されている現代、本当の遊びとは何か考えてみたいものです。
※親鸞作の「正信偈(しょうしんげ)」の一節
大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長
『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 10