私たちは生とか死ということを名詞的に考えがちですが、事実から言えば、生とは「生きていく」ことであり、死とは「死んでいく」ことですから、どちらも動詞です。そう考えると、生きていくということは死んでいくという事実の中にあり、死んでいくということは生きていくという事実の中に起ってくることです。
そのことを『歎異抄(たんにしょう)』では、「なごりおしくおもえども、娑婆(しゃば ※)の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土(ど)へはまいるべきなり」という親鸞聖人の言葉として伝えています。
死が近づいてきてみんなとお別れをしなくてはならない。なごりおしい、もっとみんなと会っていたい。でも、娑婆の縁が尽きて力なくして終わるときには、仏さまの世界へ参るべきである、と。自分の力で生きようとしている、その力が自然と抜けてくる。すると、おのずから死んでいくという事実が、かの土、つまり仏さまの世界へ参るというかたちで起こってくるのだ、と。
蓮如上人(れんにょしょうにん ※)の『白骨の御文(おふみ)』には、「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という言葉があります。朝起きたときは紅色の顔をした元気な人であっても、夕方には、白骨となってしまう。そういう身を持って生きているのが人間だというのです。
人間は縁の中に生きているというのが仏教の人間観です。どんな取るに足らないような小さなことでも縁によって起こらないものはない。その縁が尽きたときが死ぬときです。ですからご縁というものは、いつなくなるか分かりません。いのちというものは、自分ではどうにもなりません。だから一日一日がなごりおしい大切な今となるのだと思います。
「おまかせ」という世界です。そういう覚悟をすると世界が非常に明るくなり、勇気をもって生きる力が与えられるのです。仏教は、そのように生と死を共に生きていくことのできる力を私たちに与えてくださる教えではないかと思っております。
- 娑婆
- 人間の住む世界。この世のこと。
- 蓮如上人
- 室町時代の浄土真宗の僧侶
蓑輪 秀邦氏
元真宗大谷派教学研究所長
第4回 親鸞フォーラム
「人間・死と生を見つめる―今を生ききるために―」より
法話 2019 05