2019年卯月(4月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 この言葉は、本願寺第八世である蓮如(れんにょ ※)の言行を集録した書物、『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』の中にある文章の一部です。この中で、蓮如は次のように言います。
 心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀(みだ)の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり。
(自分はよく心得ていると思っている者は、実は心得てはいないのです。自分はまだよく心得ていないと思い、教えを聞く者は心得た者なのです。この愚かな自分が阿弥陀仏(あみだぶつ)に助けられることが、なんと尊いことであるかと喜ぶのが心得たということなのです。ですから少しも自分は心得たと思うことがあってはなりません)

 蓮如は、「心得たと思う」人は、実は心得てはいないのだと言います。これは一体どういうことなのでしょうか。ここで言う「心得たと思う」人とは、もう十分に自分は「分かった」という思いの中に閉じこもってしまっている人のことを指します。この人は、自分が得た知識を頼みとし、謙虚に教えを聞く姿勢を失っているのです。ですから、蓮如は、自分の知識や能力を頼みとするのではなく、阿弥陀仏の智慧(ちえ ※)に教えられて、自分は十分に心得ていない愚かな身だと自覚すべきであるということを伝えようとしているのです。
 この蓮如の言葉は、私たちの学びの姿勢を問い直す力を持った言葉であると思います。
 私たちは様々な教えを学んでいく上で、「分かった」という体験を持つことがあります。しかし、その体験はもしかしたら単なる「思い込み」や「勘違い」であるかも知れません。更に言えば、問題なのは、それが「思い込み」や「勘違い」であると、なかなか自分自身では気づけないことなのです。だからこそ、謙虚な姿勢で教えを聞き、学び続けることが求められるのでしょう。

蓮如
室町時代の浄土真宗の僧侶
智慧
知識や教養を表す知恵とは異なり、自分では気づくことも、見ることもできない自らの姿を知らしめる仏のはたらきを表す。

『蓮如上人御一代記聞書』(蓮如)

大谷大学HP「きょうのことば」2012年3月より
教え 2019 05

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「流通」は、日頃は「りゅうつう」と言います。実は仏教語としても使われていて、「るづう」と読むのです。
 その昔、四世紀、中国の晋の時代に道安というお坊さんがいました。多くのすぐれた業績があります。なかでも経典の翻訳や解釈が顕著です。その業績の一つ、お経を解釈するにあたって、内容を大きく三分割する方法を最初に提案したのも彼です。序分(じょぶん)、正宗分(しょうしゅうぶん)、流通分(るづうぶん)の三つです。序分はお経が説かれる背景や動機や理由、正宗分は中心的な内容、本論です。流通分は説かれたお経の内容がどんな未来にも、どんなところにも広く伝わることが願われているのです。たとえば『仏説阿弥陀経』の「流通分」です。
 「仏、この経を説きたまうことをおわりて、舍利弗(しゃりほつ ※)およびもろもろの比丘(びく ※)、一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きたまえて、歓喜し、信受して、礼を作して去りにき」

 お経の内容がすべての人びとに聞き取られ、感動を開き、あたかも水が「流」れるように「通」じた事実が述べられて、仏さまの説法は終わります。ここで、「流通」したという事実が語られてご説法が終わるのは、いったいなぜなのでしょうか。
 お経は仏さまがさとられた道理(法)を述べた言葉です。その背景には自己満足(慢心)を克服して流通せずにはおかないという仏陀(ブッダ)の「悲願」、つまり、自らに気づき、どこまでも私たちに寄り添い、呼び覚ます「本願(ほんがん ※)の歩み」があるのです。
 そこには他者に無関心な自己主張、言いっぱなしはありません。この流通の事実は、仏さまの言葉が全てに伝わり、その真実性が自ずと証明されていくことを物語っているのです。仏さまの言葉自体に、すでにして流通力があるのです。
 一方、私たちは、はたして流通力のある言葉をもち合わせているでしょうか。自己満足に気づかないままに言葉を吐き、しかも、誰も解ってくれないと愚癡(ぐち)っているのかもしれません。その事実に気づかないのが悲しいのです。その悲しみの向こう側に仏さまの悲しみがあるのです。

舍利弗
釈迦の十大弟子の一人
比丘
僧侶
本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い

大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 05

僧侶の法話

言の葉カード

 私たちは生とか死ということを名詞的に考えがちですが、事実から言えば、生とは「生きていく」ことであり、死とは「死んでいく」ことですから、どちらも動詞です。そう考えると、生きていくということは死んでいくという事実の中にあり、死んでいくということは生きていくという事実の中に起ってくることです。
 そのことを『歎異抄(たんにしょう)』では、「なごりおしくおもえども、娑婆(しゃば ※)の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土(ど)へはまいるべきなり」という親鸞聖人の言葉として伝えています。
 死が近づいてきてみんなとお別れをしなくてはならない。なごりおしい、もっとみんなと会っていたい。でも、娑婆の縁が尽きて力なくして終わるときには、仏さまの世界へ参るべきである、と。自分の力で生きようとしている、その力が自然と抜けてくる。すると、おのずから死んでいくという事実が、かの土、つまり仏さまの世界へ参るというかたちで起こってくるのだ、と。
 蓮如上人(れんにょしょうにん ※)の『白骨の御文(おふみ)』には、「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という言葉があります。朝起きたときは紅色の顔をした元気な人であっても、夕方には、白骨となってしまう。そういう身を持って生きているのが人間だというのです。
 人間は縁の中に生きているというのが仏教の人間観です。どんな取るに足らないような小さなことでも縁によって起こらないものはない。その縁が尽きたときが死ぬときです。ですからご縁というものは、いつなくなるか分かりません。いのちというものは、自分ではどうにもなりません。だから一日一日がなごりおしい大切な今となるのだと思います。
 「おまかせ」という世界です。そういう覚悟をすると世界が非常に明るくなり、勇気をもって生きる力が与えられるのです。仏教は、そのように生と死を共に生きていくことのできる力を私たちに与えてくださる教えではないかと思っております。

娑婆
人間の住む世界。この世のこと。
蓮如上人
室町時代の浄土真宗の僧侶

蓑輪 秀邦氏
元真宗大谷派教学研究所長

第4回 親鸞フォーラム
「人間・死と生を見つめる―今を生ききるために―」より
法話 2019 05

著名人の言葉

言の葉カード

 大学で教えている若い人たちって、虫を怖がる子が多いんです。うちの子どももね、風呂場で虫が出たらギャアって言います。かわいらしいんですけどね。仏教というのは、人間の感覚を呼び覚ます宗教だと思います。学生の人たちは普段はすごく意識的に生きているんですね。偏差値教育とかはその最たるもので、数字を見て自分を決めるんですね。
 山の寺で二日ほど心理学の講座をしたりすると、『また来たいです、このお寺に』と言うんです。それはもう森の精気に触れている。いろんな木々の音、匂い、それから鳥の鳴き声なんかに触れて、感覚がどんどん戻ってきている。『癒されました』と言って帰るんです。だから若い人や子ども達は自然とか世界とか、さまざまな生命との交わりから隔離されているのだと思います。
 人間は意識だけの世界で合理的にお金が儲かったら幸せになれると思って、そっちにがっと舵を切った。二百年前ぐらいからですね。それでようやく豊かな生活にはなったけど、まったく幸せじゃないって気づきはじめた。そしたらどうしたらいいんやって。ぼくなんかに言わせると、いやいや意識があり過ぎんねん。もうちょっと感覚に目覚めようと。隔離されてフリーズされてしまった感覚を、お湯を入れて解凍しましょうというのがぼくの意見なんです。

名越 康文氏
精神科医

「サンガ」№147より
著名人 2019 05