「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の「南無」というのは、頭が下がるということ。「阿弥陀」は無量、はかることがないということです。いのちそのものの事実は、はかることを超えています。私が今のこの私になってきた背景には、親があり、おじいさん、おばあさんがあり、その前からとずっと続いてきた私のいのちの歴史、事実があります。それは、私の思いをはるかにを超えて、いのちとしてあるのです。
しかし私たちの日常の思いは、はかることばかりです。大きさや高さ、それから速さで数としてはか(量)り、計算し計画を立ててはか(計)る。そして自分に都合よく人生を生きていこうと、はか(図)りごとをします。
そして悲しいかな、はかることの中にしか、私たちは生きていけないという面もこの私の現実としてあります。上下、優劣、損得、生と死。そしてこのいのちそのものまでもはかろうという思いが湧いてまいります。
しかし、いのちそのものは、はかることを超えている。子どもを授かった親も、また生まれてきた子どもも、それぞれ自分の都合を超え、選ぶことを超えている。時代も国も、そして民族も。親も子も選ぶことを超えて、いのちそのものは、今、ここに私が生きている。それが私のいのちの事実です。
ですから「南無阿弥陀仏」という言葉は、いつもはかりごとをしている私に「阿弥陀」に「南無」せよと。いのちの事実は、はかることを超えているんだ。その事実に「南無」しなさいという促しなのです。「いのちの事実に立ち返りなさい」、「事実を事実として受け止めなさい」。そして、「本当にそうだ」という事実へ頭の下がったうなずきこそが「南無」という世界なのでしょう。
二階堂 行壽氏
首都圏教化推進本部員
エンディング産業展2018 ミニセミナー
「通夜・葬儀・法事は誰のために勤めるのか」より
法話 2019 03