日頃、教育を受けて十分な教養や知識のある人を「学の有る人」と言います。「すごいね、あの人は学の有る人だから」と。どうも「優れた人」と評価されるようです。
一方、その反対に教養や知識のない人を無学な人と言います。「私って無学なものですから」と謙遜したり卑下してみたり、また「あの人って無学ね」と軽蔑してみたり。どうも「劣った人」と評価されるようです。
実は、この学の有る人、無い人という言葉は仏教語にもあるのです。「有学」と「無学」です。しかし意味はまったく異なっています。仏教語では、学のある人が優れた人でもなく、学の無い人が劣った人でもないのです。両方とも平等に尊いという意義のあることが大切です。なぜでしょう。
仏教で「無学」とは、学ぶことを学び尽くしてもう学ぶことがまったく無くなっている人を意味します。「学が無い」という意味ではないのです。一方「有学」とは、学ぶことが有る、いまだ学び尽くしていない、学びの途上にある者を言います。「学が有る」という意味ではないのです。だから、有学の人はどこまでも新しい課題を発見し、その課題に生きる者といえましょう。
人間は様々な悩みを抱えて生きていきます。悩みは一見生きていく上での壁のように感じられます。「この悩みさえなければ」などとぼやいたりします。悩みを無くしてしまうことが問題の解決だと考えてしまうからです。しかし、悩み無きところには問いは生まれず、問い無きところには学びもありません。歩みも止まります。
したがって、悩みを否定せずに、悩みを手立てに新たなる課題に生きる「学びの人」「歩みの人」こそが「有学の人」であります。
また、その有学の人には、学び尽くして学ぶことがすでに無い「無学の人」がおられるのです。だからこそ、有学の人は無学の人の確かな呼びかけに出会い、信頼し、いよいよ人生の学びを尽くしていくことができるのです。まことに、悩みは乗り越えるべき人生の課題であり、新たなる世界を開く扉であります。そのことを、「無学の人」は語りかけてやみません。有学の人も無学の人も共に「尊き人」なのです。
大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長
『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 01