日本の民芸運動の先駆者と言いますか、第一人者であられた柳宗悦(やなぎむねよし)さんが、北陸城端別院(じょうはなべついん)でお書きになりました『美(び)の法門(ほうもん)』という、本当の美って何だということをたずねておられる本があります。美という言葉をそのまま清浄心という言葉にうつしてもいいのですが、美と言っているこっち側は美しい、これは醜(みにく)い、つまり、醜に対して美と分別して、その二つに分けて、美しいとか醜いということを私たちは言っているのです。私どもの捉え方はいつもそういう相対的な捉え方です。二つ並べて、どっちだという言い方です。
それこそ同時多発テロ(2001年)においてもビン・ラディン氏は、これはイスラム教を信ずる者と、信仰なき者との戦いだという言い方をしましたし、ブッシュ大統領は、われわれに正義があるんだ、この悪の枢軸(すうじく)に対してわれわれこそ正義だと言いました。そういう言い方は、ある意味でいつの時代にあっても、どういう分野においても、自分はこうだがあいつらはこうだという言い方であります。
そういう意味で、美ということもいつも醜、醜さということに対して美ということを主張する。だけどもそんなものは本当の美だろうかということを柳さんは問われるわけなんです。
なにかを醜いものとして否定することによって立てられてくる美しさというものは、本当に人間の人生にとって美しいものと言えるのか。他を醜いものとして否定する、あるいはおとしめることで主張されてくるような美というのは結局、醜です。醜さを恐れる美でしかないのではないでしょうか。醜に向かい合っている美ですから、私のほうが美しいと主張しているわけですが、それは結局醜さというものを恐れる心でしかないし、そういう心が美しい心とはとても考えられない。
ここに柳さんが求めていかれましたのは、「不二(ふに)の世界」ということです。これは美だこれは醜だ、これは善だこれは悪だと何でも二つに分けて自分をいいほうに立てていく、そういう二つに分ける心というものを打ち破って、「二つに分かれる以前の与えられたありのままの本分(ほんぶん)に帰ろう」とおっしゃっているのです。
本当の美しさというのは人間の本来に根付いたものであり、その人間の本来に帰り、その人間の本来の心を表していくものが美なのではないのか。その本来に背くもの、本来を覆い隠してしまうものを醜、醜さというのでないのかとおっしゃっているのです。美に対して醜、美しさを競い合うということではなく、問題は、人間の本来というものを、どこまで身に明らかにして、その人間としての本来の心を生きるか、そこに美しいという問題もあるんだ。本来を失い、本来に背いた生き方をしているところに、醜さがあるんだ。「醜さを恐れ美しさに囚(とら)えられているような」心を破って、それを超えて本来に帰ろうということを言われているのが、「不二の心」という言い方です。
そういうことがあらためて思われるわけでありまして、仏教が清浄心ということを言いますのも、決して清浄に対して醜いものを否定して、われらこそ清浄だということを言っているのではないということが押さえられるわけです。
『美の法門』
柳 宗悦氏
宮城 顗(しずか)氏
九州大谷短期大学名誉教授
『人と生まれて』(東本願寺出版)より
著名人 2026 08