2026年葉月(8月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 この言葉は、『相応部経典(そうおうぶきょうてん)』に収められている「マッリカー経」からの引用です(中村元『神々との対話I』pp.169-170, 片山一良『相応部』第1巻, pp.313-314)。古代インドに存在したコーサラ国には、パセーナディ王という王がいました。王妃の名はマッリカーといい、夫婦そろって釈尊(しゃくそん/お釈迦さま)に帰依し、仏教教団を保護したと伝えられています。
 ある日、パセーナディ王とマッリカー妃(きさき)は高楼に登って語り合っていました。そのとき、王は妃に「そなたには、自分よりもさらに愛しい者が他に誰かいるかね」と尋ねました。王は、妃から「王様、私にとって何よりも愛しいのはあなたです」という答えを引き出し、互いの愛情を確かめ合いたかったのでしょう。古代インドの注釈者も、そのように解釈しています。しかしマッリカー妃は、自分の心に正直に「私には、自分よりさらに愛しい者は、他に誰もおりません」と答えました。そして妃が「王様はいかがですか」と問い返すと、王もまた「私にも、自分よりさらに愛しい者は、他に誰もいない」と率直に答えたといいます。
 仏教では、人は誰しも強い自己への執着を抱いていると説かれます。「私が」「私の」と、自分を中心に物事を考えてしまうのです。私たちは自分に執着し、自分の欲望や感情に振り回されながら生きています。「子どものためなら命を捧(ささ)げられる」と思ったとしても、我が子だからこそそう思えるのかもしれません。そう考えると、マッリカー妃の言葉は、誰もが認めざるを得ない事実を示していると言えるでしょう。人間にとって、自己ほど愛しいものはないのです。
 釈尊は、この二人のやり取りを踏まえて、次のように説かれました。「あらゆる方向に、心で探し求めても、自分よりもさらに愛しい者を得ることはない。このように、他の人々にとってもそれぞれの自己は愛おしいものである。それゆえに、自己を愛する者は、他者を害してはならない」。つまり、自分が自分を大切に思うように、他者もまた自分を大切に思っている。そのことに気づき、相手を傷つけずに生きなさいと説かれたのです。
 ここで示されているのは、他者への想像力です。自分さえ良ければいいという自己中心的な心に気づき、他者の立場から物事を見ること。これは社会の中で他者と共に生きる私たちに欠かせない姿勢でもあります。人は皆、自分を愛しく思うものですが、その自分本位の見方を少し離れ、他者に寄り添う心を育んでいきたいものです。

『相応部経典』

光華学園HP「今月のことば」2025年9月より
教え 2026 08

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 親鸞聖人は、次のような詩(うた)を「和讃(わさん ※)」にうたっています。

 仏光照曜最第一(ぶっこうしょうようさいだいいち)
 光炎王仏(こうえんのうぶつ)となづけたり
 三塗(さんづ)の黒闇(こくあん)ひらくなり
 大応供(だいおうぐ)を帰命(きみょう)せよ
 (『真宗聖典 第二版』571頁)

〔意訳〕
阿弥陀仏(あみだぶつ)の光明があらゆる人々を照らし耀(かがや)かせるはたらきは、最もすぐれています。ですから、光明の中の王として「光炎王仏」と名づけるのです。この光明は、私たち自身が作り出している地獄・餓鬼・畜生の三塗の暗闇をあきらかにします。その闇を知らされ(照らし出されて)、供養せずにおれない自分に出遇(あ)わせて(耀かせて)くださる阿弥陀仏のはたらきをいただいて生きてゆきなさい。


 「大応供」という言葉が出てきます。「応」はふさわしい、「供」は供養を意味します。つまり、阿弥陀さまは「心から供養するのに、もっともふさわしい方」だということです。
 ここで少し立ち止まって、「供養」について考えてみましょう。
 「供養」と聞くと、こちらから供養して良いことが起こるように願うとか、逆に何かをしてもらったから供養してお返しをする、というイメージがあるかもしれません。
 でも、本来の意味は少し違います。供養の元々の意味は、本当に大切なものを差し上げるということです。
 私たちは普段、どうしても「損か得か」「ギブ・アンド・テイク」といった利害関係で物事を考えがちです。実は、そんな私たちの「打算的な生き方」そのものが、「三塗の黒闇(私たち自身が作り出している心の闇)」なのです。
 むしろ、そういうギブ・アンド・テイク、利害ということばかりで生きている私たちのあり方が、供養することを通して、阿弥陀仏の光明に照らし出されて、「三塗の黒闇」として知らされるということなのでしょう。
 本当の利益、救いとは何かということについて、宮城顗(みやぎしずか ※)先生は、こんなふうにおっしゃっています。

 実は供養せずにおれないものに遇いえたということこそが何よりの利益であり、救いであるのです。(『和讃に学ぶ 浄土和讃』東本願寺出版・93頁)

 「お返しが欲しいから」ではなく、理屈抜きで「この尊いものに、何かを捧(ささ)げずにはいられない!」と思えるほど素晴らしいものに出遇うこと。そのこと自体が、すでに最高の救いなのです。
 阿弥陀さまの光に照らされて、そのような自分に出遇わせてもらう。これこそが、この私の人生を輝かせるということではないでしょうか。

和讃
親鸞が人々に親しみやすくつくった詩
宮城 顗(1931~2008)
真宗大谷派の僧侶。真宗大谷派本福寺前住職。九州大谷短期大学名誉教授。

吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長

仏教語 2026 08

僧侶の法話

言の葉カード

 現代と向き合う点からひと言申しますと、今日の状況というものは、いつも指摘されますように、科学技術の驚異的な発達で、私たちは本当に豊かで便利で快適な文化生活を享受しております。けれども、その代償のなんと大きいことであることか。自然や環境の破壊にとどまらず、肝心要(かんじんかなめ)の人間そのものの破壊というところまで今日は広がっていると言えましょう。
 そして、肥大化した欲望はとどまるところを知りません。欲望を追求し、満足させていくことだけが人間の発展であり、進歩であり、向上であるという考え方、価値観と言ってよろしいでしょう。
 そういうところで、すべては物質、モノ化される。モノ化されるということは、すべてが数量化されることです。肝心のいのちまでがモノ化され、数量化されているわけです。今日、生命科学で云々(うんぬん)される「いのち」というものは、モノ化された、数量化されたいのち。ですから、私たちは無意識のうちに、死んだら終わりという虚無的ないのちしか生きていないのではないでしょうか。
 そしてそのことが、さらに今日のさまざまな事件と言いますか、凶悪犯罪と申しますか、あらゆる悲惨な事実として毎日のように報道されている。それが、今日の実態でございます。

池田 勇諦氏
真宗大谷派 西恩寺前住職(三重県)

『いのちとひかり―真宗のいのち観』
(東本願寺出版)より
法話 2026 08

著名人の言葉

言の葉カード

 日本の民芸運動の先駆者と言いますか、第一人者であられた柳宗悦(やなぎむねよし)さんが、北陸城端別院(じょうはなべついん)でお書きになりました『美(び)の法門(ほうもん)』という、本当の美って何だということをたずねておられる本があります。美という言葉をそのまま清浄心という言葉にうつしてもいいのですが、美と言っているこっち側は美しい、これは醜(みにく)い、つまり、醜に対して美と分別して、その二つに分けて、美しいとか醜いということを私たちは言っているのです。私どもの捉え方はいつもそういう相対的な捉え方です。二つ並べて、どっちだという言い方です。
 それこそ同時多発テロ(2001年)においてもビン・ラディン氏は、これはイスラム教を信ずる者と、信仰なき者との戦いだという言い方をしましたし、ブッシュ大統領は、われわれに正義があるんだ、この悪の枢軸(すうじく)に対してわれわれこそ正義だと言いました。そういう言い方は、ある意味でいつの時代にあっても、どういう分野においても、自分はこうだがあいつらはこうだという言い方であります。
 そういう意味で、美ということもいつも醜、醜さということに対して美ということを主張する。だけどもそんなものは本当の美だろうかということを柳さんは問われるわけなんです。
 なにかを醜いものとして否定することによって立てられてくる美しさというものは、本当に人間の人生にとって美しいものと言えるのか。他を醜いものとして否定する、あるいはおとしめることで主張されてくるような美というのは結局、醜です。醜さを恐れる美でしかないのではないでしょうか。醜に向かい合っている美ですから、私のほうが美しいと主張しているわけですが、それは結局醜さというものを恐れる心でしかないし、そういう心が美しい心とはとても考えられない。
 ここに柳さんが求めていかれましたのは、「不二(ふに)の世界」ということです。これは美だこれは醜だ、これは善だこれは悪だと何でも二つに分けて自分をいいほうに立てていく、そういう二つに分ける心というものを打ち破って、「二つに分かれる以前の与えられたありのままの本分(ほんぶん)に帰ろう」とおっしゃっているのです。
 本当の美しさというのは人間の本来に根付いたものであり、その人間の本来に帰り、その人間の本来の心を表していくものが美なのではないのか。その本来に背くもの、本来を覆い隠してしまうものを醜、醜さというのでないのかとおっしゃっているのです。美に対して醜、美しさを競い合うということではなく、問題は、人間の本来というものを、どこまで身に明らかにして、その人間としての本来の心を生きるか、そこに美しいという問題もあるんだ。本来を失い、本来に背いた生き方をしているところに、醜さがあるんだ。「醜さを恐れ美しさに囚(とら)えられているような」心を破って、それを超えて本来に帰ろうということを言われているのが、「不二の心」という言い方です。
 そういうことがあらためて思われるわけでありまして、仏教が清浄心ということを言いますのも、決して清浄に対して醜いものを否定して、われらこそ清浄だということを言っているのではないということが押さえられるわけです。

『美の法門』
柳 宗悦氏

宮城 顗(しずか)氏
九州大谷短期大学名誉教授
『人と生まれて』(東本願寺出版)より
著名人 2026 08