親鸞聖人は、次のような詩(うた)を「和讃(わさん ※)」にうたっています。
仏光照曜最第一(ぶっこうしょうようさいだいいち)
光炎王仏(こうえんのうぶつ)となづけたり
三塗(さんづ)の黒闇(こくあん)ひらくなり
大応供(だいおうぐ)を帰命(きみょう)せよ
(『真宗聖典 第二版』571頁)
〔意訳〕
阿弥陀仏(あみだぶつ)の光明があらゆる人々を照らし耀(かがや)かせるはたらきは、最もすぐれています。ですから、光明の中の王として「光炎王仏」と名づけるのです。この光明は、私たち自身が作り出している地獄・餓鬼・畜生の三塗の暗闇をあきらかにします。その闇を知らされ(照らし出されて)、供養せずにおれない自分に出遇(あ)わせて(耀かせて)くださる阿弥陀仏のはたらきをいただいて生きてゆきなさい。
「大応供」という言葉が出てきます。「応」はふさわしい、「供」は供養を意味します。つまり、阿弥陀さまは「心から供養するのに、もっともふさわしい方」だということです。
ここで少し立ち止まって、「供養」について考えてみましょう。
「供養」と聞くと、こちらから供養して良いことが起こるように願うとか、逆に何かをしてもらったから供養してお返しをする、というイメージがあるかもしれません。
でも、本来の意味は少し違います。供養の元々の意味は、本当に大切なものを差し上げるということです。
私たちは普段、どうしても「損か得か」「ギブ・アンド・テイク」といった利害関係で物事を考えがちです。実は、そんな私たちの「打算的な生き方」そのものが、「三塗の黒闇(私たち自身が作り出している心の闇)」なのです。
むしろ、そういうギブ・アンド・テイク、利害ということばかりで生きている私たちのあり方が、供養することを通して、阿弥陀仏の光明に照らし出されて、「三塗の黒闇」として知らされるということなのでしょう。
本当の利益、救いとは何かということについて、宮城顗(みやぎしずか ※)先生は、こんなふうにおっしゃっています。
実は供養せずにおれないものに遇いえたということこそが何よりの利益であり、救いであるのです。(『和讃に学ぶ 浄土和讃』東本願寺出版・93頁)
「お返しが欲しいから」ではなく、理屈抜きで「この尊いものに、何かを捧(ささ)げずにはいられない!」と思えるほど素晴らしいものに出遇うこと。そのこと自体が、すでに最高の救いなのです。
阿弥陀さまの光に照らされて、そのような自分に出遇わせてもらう。これこそが、この私の人生を輝かせるということではないでしょうか。
- 和讃
- 親鸞が人々に親しみやすくつくった詩
- 宮城 顗(1931~2008)
- 真宗大谷派の僧侶。真宗大谷派本福寺前住職。九州大谷短期大学名誉教授。
吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長
仏教語 2026 08