「過去」は、「時の流れを三区分した一つで、既に過ぎ去った時。現在より前」のことですが、もともとは仏教語の「過去世」の略称です。仏教では「時間」を「三世」とし、「過去世・現在世・未来世」と区分します。これは人間が「時間」をどのように感じているかを表しています。しかし、「時間」を突き詰めてみれば、人間は、「現在」しか生きていません。「過去」のことを思っているのも〈いま〉ですし、「未来」のことを考えているのも〈いま〉です。藤代聰麿(としまろ)さん(※)は「これからが、これまでを決める」と言われました。これは、どれほど悲惨に思える「過去」であっても、それはこれからの受け止め方次第で、不幸にも幸せにも変化することを教えています。
「過去」の事実は変えることができませんが、それをどのように受け止めるかという「受け止めの自由」は、「現在」に残されているのです。つまり、自分自身の「現在」をどのように受け止めるかによって、「過去」は変化していきます。もし「現在」が満足のいくものであれば、「過去」の様々な問題も、そのような困難があったからこそ「現在」の幸せに結びついたのだと受け取れます。しかし、逆に「現在」が不満足であれば、「過去」は、「あれさえなければ、こんなことにはならなかったのに」と愚癡(ぐち)の種になります。要するに私たちにとっての「幸・不幸」は、「現在」をどのように受け止めるかに懸かっているのです。
しかし、そうは言っても、私たちは「過去」を愚癡の種にし、「未来」に不安を抱えて生きているのが実情ではないでしょうか。そんな私を阿弥陀(あみだ)さんは、「過去」を愚癡の種にするのも、「未来」を不安に感じるのも、すべては「比べる煩悩」に惑わされているのだよと教えてくれます。そして人間を「幸・不幸」という幻想から解放して下さるのです。
- 藤代聰麿(1911~1993)
- 真宗大谷派僧侶
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2023 02