仏教の教えについて

言の葉カード

 人間は条件を付けて選びます。選ぶという時には必ず条件がある。身長何センチ以上とか、偏差値いくつ以上とか、年齢制限もそうでしょう。現代社会では、人は本当に選別や排除の恐怖におびえながら生きています。つねに評価され、比較され、競争させられているわけです。そうやって、「君は競争に負けたのだから選ばれなくてもしかたがないでしょう」とする。

 「弥陀(みだ)の本願(※)には、老少善悪(ろうしょうぜんあく)の人を選ばれず」というのは、「こっちはいいけどこっちは駄目」というように、選ばないということではありません。そもそも分けないのです。仏教では「無分別(むふんべつ)」と言います。私たちはいつも、「どっちがいいだろう」と思いながら生きています。損か得か、どちらが有利か。仏教は、そこからの解放です。基本は分けないということなのです。「無量寿(むりょうじゅ)如来」の「無量」ということも、「量ることからの解放」です。量の世界というのは、結局は単位を決めて分ける世界です。分けて分類したところに、名前を付ける。つまりレッテルを貼って決めつけるということです。多いのが良いのか少ないのが良いのか。ものによって方向性が決まっていますから、そこで必ず圧力がかかってきます。売上は伸び続けなければならない。成績は上がり続けなければならない。記録は更新され続けなければならない。必ず一種の方向性があって、そこで必ず比べられる。比べるのは、過去と比べて増えたか減ったか、他者と比べてどっちが優れているかということです。このことが私たちの悩みや苦しみの原因の大きな一つです。しかし、人間が人間を評価できる範囲は、氷山でいえば海面より上の一部のところだけです。そこしか見ることができていないのに、評価比較が行われているのです。

 安心できる「未来」があり、そこに向かって生きていく。仏教では、それを「浄土」ということで表します。浄土を学ぶことは、人生の方向性を学ぶことです。

本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い

『歎異抄(たんにしょう)』(唯円)

真城 義麿氏
真宗大谷派 善照寺住職(愛媛県)
『「生きている」と「生きていく」』(東本願寺真宗会館)より
教え 2024 04