僧侶の法話

言の葉カード

 「一番あやしいのは自分じゃないか。」
 街角の「あやしい人を見たら110番」の看板を見て、K先生が笑いながら言われた。人を善し悪しと決めつけ、全能の審判者になったつもりで評価を下している自分があてにならない。

 「天下におのれ以外のものを信頼するよりはかなきはあらず。しかもおのれほど頼みにならぬものはない。どうするのがよいか。森田君、君この問題を考えたことがありますか。」
 夏目漱石(1867-1916)が弟子の森田草平(1881-1949)にあてた手紙の一節である。近代日本の知性を代表する漱石のするどい人間観察だ。その漱石でも脇の甘さが残る。「どうするのがよいか」と問いかけるところに、まだ自分の知性、能力をたのむ心が尾をひいている。愚かな身に着地しきれていない。
 しかし、わかったふうに漱石を責めることはできない。客観的な自分を見ることほど困難なことはない。

 親鸞は、そのようなどうすることもできない愚かな身を「煩悩具足(ぼんのうぐそく ※)の凡夫(ぼんぶ)」と言い当てた。仏の「摂取不捨(せっしゅふしゃ ※)」の愛を信じて、凡夫の事実に身をまかせれば、少しは自由でのびのびとした世界がひらけてくるのではなかろうか。
 現代の病は、凡夫であることを封じこめるところにある。いつも正解を求め、間違わない者、義(ただ)しい者でなければならないと、自分で自分自身を追いこめるところに窮屈さがある。
 北陸の真宗門徒の間に言い習わされてきた言葉がある。
 「凡夫のはからい、ぬかりがある。」

煩悩具足
様々な煩悩をすべてそなえて生きていること
摂取不捨
どのような存在もおさめとって見捨てないということ

狐野 秀存氏
大谷専修学院 前学院長

真宗会館広報誌『サンガ』168号より
法話 2023 12