暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 もともと仏教語だった「愛嬌(あいきょう)」は、現代語としても使われています。仏教語としては「愛し敬うこと。仏・菩薩(ぼさつ)の優しく温和な相貌(そうぼう)」を表しますが、現代語では「女性や子供などが、にこやかでかわいらしいこと」(『広辞苑』)に用いられます。だから「あの子は愛嬌がある」などと言えば、「あの子は人なつこく可愛らしい」という意味で理解できます。「愛嬌」と似た意味の言葉として「和顔愛語(わげんあいご)」があります。これは「やわらかな顔と、優しい言葉」の意味で、阿弥陀(あみだ)さんが人間に示される関わり方です。阿弥陀さんは、人間に対して、一方的に片思いをされている仏さまなのです。

 人間は、自分を一番愛しているように見えて、状況が変われば、自分を見捨てる生き物でもあります。ひと昔前の川柳に、「亭主殺すにゃ刃物はいやぬ。役に立たぬと言えばよい」というのがありました。定年退職後の老夫婦が、夫婦喧嘩をしたときの情景を詠んだ川柳です。奥さんが旦那さんに向かって、「あんたは役立たずだ」と言えば、旦那さんはぺしゃんこになったというのです。なぜぺしゃんこになるかと言えば、旦那さんは「役に立つこと」を自分の誇りにしていたからです。それなのに定年退職で、毎日家でゴロゴロしていたのでは、何の役にも立っていない。役に立たないものは意味がないと自分で自分を悲観したのでしょう。

 これはご夫婦の話ばかりではありません。現代社会を覆っている価値観は、「役に立つか、立たないか」です。そして「役に立たないものは、存在の意味がない」と自らのいのちを苦しめることにもなってしまいます。そんな人間に対して、阿弥陀さんは「和顔愛語」で寄り添って下さいます。あなたは「役に立つか、立たないか」という価値観で自分を切り刻んでいるけれども、そんな価値観は幻想だと優しく教えて下さいます。そして、「役に立っても、立たなくても」私の子どもとして一方的に愛して下さるのです。いい子にしているから愛して下さるのではありません。いい子も悪い子も、同じように愛して下さるのです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2023 12