暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 私たちの暮らしのなかでは、「分別」という言葉をよく耳にします。その場合、分別とは、いろいろ経験を積んで、世間の物事の善悪や道理をよく知っているという意味で使われています。しかし、日頃そのような意味で使われている分別という言葉も、実は仏教語で、仏教の歴史のなかでずっと課題にされてきた大切なテーマを孕(はら)んでいる言葉なのです。
 まず、人間は「考えること」を基礎にして生きています。インドでも古くから人間を定義して「考える者」と表現しているくらいです。人はいつも、考えることなしには生きていません。ところが、その、考えることでまた悩んでいるのが人間の事実です。なぜ考えることでまた悩むのか。それは自分と周りが「つながらない」からです。なぜ、つながらないのでしょう。それを問いとして、仏教では考えることの奥底の問題を尋ねていったのです。そして「考えること」の特質を「分別」として見出したのです。
 分別の「分」は分断の分、分別の「別」は区別の別。考えるとは、自分と周りを分断し区別して考えること。つまり、考えることには、すでに自分と周りを対立させていく構造が隠されていることが明らかになったのです。しかも分別の奥底には、さらに気づかない形で自我意識がはたらいていて、自分の決め込みを作り出しています。
 相手のことを考えているようで、実は自分の考えの押し売り…。しかしそのことに気づきません。
 私たちは人間関係に悩みます。悩みも多様です。ところが人間の関係が破綻(はたん)していく根本は、「あなたは解(わか)っていない」「いや、あなたの方こそ解っていない」と言い合う鈍感さ。「あなたのことは私が一番よく理解している」という無理解…。本当に理解し合えるということは、人間に成り立つのでしょうか。本当の理解。それは、自分の思い込みの根深さ、分別の根深さに気づいて、その人にただただ寄り添うことなのかもしれません。

大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2018 12