僧侶の法話

言の葉カード

 現代社会では、死を連想させることは縁起が悪いという了解が強いように感じます。以前にこんなことがありました。年が明けて、あるご門徒さんのお宅にお邪魔するために僧侶の格好で道を歩いていたら、初詣の帰り道らしき若い男女が前から歩いてきました。すれ違った時に喋り声が耳に入ってきました。「正月早々坊さん見てしまった…。縁起が悪い」と。「えーっ」と思いました。しかし、よくよく考えると、現在の日本の社会がお坊さんや仏教というものに対して持っているイメージが如実に表れているなと思ったのです

 本来、生と死はワンセット、紙の裏表みたいなものです。死が嫌だということだけで片方だけ削ってしまえば薄くなるか破れます。いのちでいえば、「生」の厚みや輝きやきらめきがなくなってしまう。生まれた意義や生きる喜びまでもがどんどんと薄くなっていく。そうすると、いのちの尊厳や敬いが失われ、生きる意味を見失ったり、何のために生きているのか、なぜ生きなければならないのかということが分からなくなります。死を軽んじ遠ざけてしまうと、「生きる」ということまで軽くなってしまうのではないかと思います。

 最近は葬儀が非常に簡略化される傾向にあり、新型コロナも影響してそれが一層進んでしまったように感じます。良し悪しは別にして、ひと昔前は葬儀を営む際は多くの人が関わりました。親戚も隣近所も総出でお手伝いをしました。言い換えれば、人がひとり生まれる事も一大事ですが、人がひとり亡くなることも、同じくらい一大事だった。死は決してプライベート(私的)なことではなくパブリック(公的)だったのです。葬儀という営みのなかで、生とは何か死とは何かを皆が感じとっていた。つまり、いのちの重さは、生や死をくぐらなければ実感できないのが私たち人間なのです。
 縁起が悪いというイメージだけで死を遠ざけ見ないようにすることは、その裏表である生もまた、遠ざけ見えにくくしてしまうことになるのでしょう。

海野 真人氏
真宗大谷派 法因寺住職(三重県)

真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2022 12