僧侶の法話

言の葉カード

 私の好きな言葉に「失ったものの大きさは、与えられていたものの大きさだった」というのがあるんですね。私たちは失った悲しみというところばかりに目が行きがちなんですけど、それは同時に与えられていたということでもあったんだと。そこをもっと、しっかり見ていかなければいけないと思うんです。大切な人を失って、心にぽっかりと穴が空いてしまって、ご飯も喉を通らない。その空いてしまった穴を無理やり埋めようと、何か気ばらしをして過ごすこともあると思います。でも、本当は忘れなくてもいいんですよね。今の時代は、悲しいこと、辛いことはどんどん排除して、見えないようにしていく傾向が強いですが、でもそういうことが、実は人間を本当に人間らしくしてきたのではないかと思うんですね。

 だから、悲しみという心を育ててあげるということが大事ではないでしょうか。
 批評家の若松英輔さんが「かなしみ」という言葉には、古来、五つの漢字があったということを言われているんですね。
 まず一つが「悲」です。これは心が左右に張り裂けている様子を表している。
 さらには「美」という字で、「かなしみ」と読まれた。かなしみの底には美が潜んでいるのだと。例えば桜の花が散っていくことに対して、私たちは寂しさを覚えると同時に、それを美しいと感じる心を持っていますよね。それはある意味、かなしみの底に美ということがあるからなんだと。そして、最後に「愛」という字を使って「かなしみ」とも昔の人は読んだんですね。かなしみの底には愛があるんだと。誰かを愛していたということが、私たちをかなしませているわけです。

 現代の私たちは、最初の痛みとしての悲しみだけを取って、それを何とか見ないようにしている。でも、そのもっと深いところには、美しさであったり、愛であったり、そういうものがあるということで、そちらに目を向けることが、とても大事ではないかなと思います。

花園 一実氏
真宗大谷派 圓照寺住職(東京都)

親鸞フォーラム抄録『Sein(ザイン)』Vol.10より
法話 2024 02