暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 現代語で「精進」と言えば、「精進料理」を連想しますが、元々の意味は「ひたすら仏道修行に励むこと」です。これが「仏道」の一般的なイメージではないでしょうか。ところが親鸞は、  『不得外現(ふとくげげん) 賢善精進之相(げんぜんしょうじんしそう)』(散善義/さんぜんぎ)というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり 『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』 と述べています。これは善導大師(ぜんどうだいし ※)の言葉の解説ですが、親鸞は「精進なるすがたをしめすことなかれ」と否定的に受け止めています。
 親鸞は「ひたすら仏道修行に励むこと」そのものを否定しているわけではありません。「ひたすら仏道修行に励むこと」は尊いことです。ですから、他人から「あなたも一生懸命に仏道修行しているじゃありませんか」と言われても、そんなことは意に介しません。他人から見てどう見えようとも、そんなことは問題ではないのです。

 親鸞が問題にしているのは「自分はしっかり精進している」という思いです。「自分はしっかり精進している」という思いは、自力の思い上がりから起こってくるのです。たとえ自分が「四六時中、仏道修行をしている」と思っても、自分のこころが思っているだけのことで、それが「本当の精進と言えるのか」と問われているのです。もちろん問うているのは、自分ではなく阿弥陀(あみだ)さんです。自分で自分を問うのであれば、やはり「自分の思いの中の出来事」に過ぎません。自分の思いを超えた阿弥陀さんから問い詰められたから、そのように表現できたのです。

善導(613~681)
中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2022 10