僧侶の法話

言の葉カード

 現代という時代は、評価地獄の只中にあります。評価地獄を私なりに表現すると、「比べっこ地獄」となります。学校教育も成績順に並べられて評価を受けていく。でも本当は誰も比べられたくないのです。子供たちだけではなく、先生も評価を受ける。そして先生たちを統括(とうかつ)する校長先生たちも評価を受けていく。その数珠(じゅず)つなぎの中で私たちは苦しんでいるのではないでしょうか。
 その評価の目とはどこにあるのか。それは社会を作っている私たち一人ひとりのなかに評価者が宿っているのではと思います。ですから、誰がその評価基準を決めているのかといえば、何を隠そうこの私でございましたということではないでしょうか。比べないと安心できない。比べることによって私の立ち位置というものをはっきりとさせていく。自分というものがやっとはっきりする。それが評価社会の中に生きている私たちの生き方ではないのかなと思います。
 『浄土論註(じょうどろんちゅう ※)』に、「所求(しょぐ)に称(とな)ひて、情願を満足する」というお言葉があります。所求は、自我の欲求、自己中心的な欲ですが、それだけでは満足できない要求をいのちはもっている。そのいのちの願いを情願というのです。私どもは目先の欲にまみれて、本当の要求を知らないのです。しかし、欲があるからこそ、人間として生まれてきたことを喜びたいという、深いいのちの願いに触れる縁となるのではないでしょうか。一人ひとりが人間として生まれたことを喜びたい。いのちの本当の要求は、自我の欲求によって隠されている。自我の欲求は、娯楽に走ることで、一時的には、満足することはあります。
 しかし、本当に満足かと言われれば、何か虚しい。日常心のなかで、いのちの要求や願いに気がつかず、自己関心の中で「自分が自分が…」と生きてしまう。そういった自己関心、自己中心の欲求で、自分を傷つけ、他人を傷つけていく。それが、私たちの評価社会の中に、根っこにあるのです。それは、気がつかないうちに、私たちの習慣となり、それに翻弄(ほんろう)されている。ですから、仏さまは、「本当の欲求に気づいてください」と、南無阿弥陀仏を通して、比べることのない願いの世界に触れさせたいとうったえてくださっているのではないかと思うのです。

『浄土論註』
中国の僧である曇鸞(どんらん 476~542)の主著。曇鸞は、親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。

雲井 一久氏
真宗大谷派 真照寺副住職(神奈川県)

真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2018 10