自らの命が永遠でないことは誰もが知っています。また、それがいつおとずれるとも知れないものであることも誰もが承知しています。ですから、清沢先生(※)のこの言葉に初めて接した時の私の印象は、「そんなことはあたり前ではないか」というものでした。ですが、私自身の日常は、日頃から死とともにある生を自覚しているかというと決してそうではなく、むしろ、死を遠い未来のことと考え、死から目を背けて生きていると言わねばなりません。
私自身の日常の意識は、どこまでも生と死を対立することとして捉(とら)え、生に執着(しゅうじゃく)し、死を厭(いと)い避けようとして生きています。ですから、死を身近に感じる出来事に遭遇(そうぐう)したり、死の不安をともなうような病気になると、死の恐れの前で動揺し、苦しむことにもなります。
清沢先生は、仏教によって生と死とを相反(あいはん)することと認識しているうちは本当の安らぎに立つことはできないと述べます。なぜなら死の不安はどこまでも生に執着し死を避けたいと思うことから生じるからです。この執着から解放されていく道を説く仏教を人生の依り処(よりどころ)とし、生も死もひとしく縁によって起こる事実であり、縁によって生まれ、生き、死んでいく自らの身の事実を受けとめることなくして、本当の安らかさはないと確かめていきます。
しかし正直なところ、その道理をあきらかにし、認識できたとしても、その身の事実を受けとめて生きることは、実際には困難であると言わざるを得ません。それは、生と死を含め自らの人生の内容をどこまでも自らにとって好ましいことか否か、都合の良いことか否かという相対的な価値判断で受け取ることを一歩も離れることができない者が私であるからです。このような私たちのあり方を悲しみおこされたのが阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(※)に他なりません。
生と死を人生の内容としてあわせもつその私が、どのような状況にある生も、どのようなおとずれ方をする死をも包んで、自らの一生をかけがえのないこととして受けとめて生きていく、そういう深い願いが満たされていく生き方が本願念仏の仏道に恵まれることを、清沢先生は思索し、語っていかれたのだと思います。
- 清沢満之(1863~1903)
- 明治期に活躍した仏教者、哲学者、教育者。真宗大谷派僧侶。
- 本願
- 全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い
清沢 満之(きよざわ まんし)
西本 祐攝(ゆうせつ)氏
大谷大学准教授
『今日のことば(2020年)』(東本願寺出版)より
教え 2024 09