暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「正義」とは「正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道」と『広辞苑』の最初に出てきます。これは倫理的な意味ですが、仏教語の「正義」は、「正しい意義」のことで、仏道の真理を意味します。いろいろな動物が地球上に生きていますが、「正しく生きたい」という欲求は人間特有のものでしょう。この場合の「正しく」は倫理的な意味以上に、「本当に生きる」という意味だと思います。この自分の人生が、本当に間違いのないものだと頷けるかどうか。それを人間は深いところで求めているのです。
 唐の時代の善導大師(ぜんどうだいし ※)は「経教(きょうきょう)はこれを喩(たと)うるに鏡の如し」(『観経疏/かんぎょうしょ』)と説かれます。つまり、仏教は譬(たと)えれば「鏡」のようなものだと。この「鏡」に照らしてみれば「正しく生きる」ためのヒントが見つかります。親鸞は、その「鏡」に自分の姿を映し出されて、次のように言います。
 「凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意/いちねんたねんもんい』)と。意味は「私は愚かなただびとで、迷いが深く、欲望や腹立ちや嫉妬心も多く、これらの煩悩がいつも沸(わ)き起こってきて、この世を去るときまで止まることも消えることもありません」と述べています。

 私のこころは「見たくない自分」は排除し、「自分好みの自分」を貪(むさぼ)り求めます。実は、そのこころこそが「煩悩」だと〈真実〉の鏡に映し出されたのです。「鏡」は私が見たくない「ほんとうの姿」を映し出します。しかし、そこから「自分のこころ」を中心とした生き方でなく、〈真実〉という鏡を中心とした生き方へ転換して下さるのです。

善導(613~681)
中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2021 07