僧侶の法話

言の葉カード

 「わが子に迷惑を掛けたくない」というのは非常に美しい言葉に聞こえますが、その思いの根底には、「私は今まで誰の世話にもならなかった」、「自分の力で頑張ってきたんだ」という、人に頼ることが悪いことという考え方があるからでしょう。そうすると、身の上に起こってくることの事実を隠そうとしたり、善悪の判断のみで物事を考えてしまったり、プライドが高く認めようとしなかったり…。
 かくいう私にも、年相応の衰え方をした89歳の母親がおります。病院に行くときは、杖をついたりマスクをするようこちら側が勧めても、聞く耳を持ちません。マスクをすると病人のように思われ、杖を使うと老人のように思われると言うのです。プライドが許さないわけですね。そして人に迷惑を掛けたくない。それはあくまでも善悪の世界の中で考えているものですから、悪いことだと思っているのです。
 この言葉は浅田正作さん(※)の詩集の一節です。年を取って面倒なものになったのではなく、もともと面倒なものを抱えた人間なんだということでしょう。そして、面倒なものが年を取ったということを、年を重ねたことで教えられてくると。
 仏法(ぶっぽう)を聞き続けて本当の教えに出遇(あ)ったと思いながらも、決してその教えに出遇っていないのかもしれません。むしろ、自分の身に起こる事実、自我を知らされてくることを通して教えに遇っていく。教えに出遇って完成されていくという話ではなく、「ますます教えを聞いていないことが明らかになってくる」、「頷けない自分がここにいる」ということが教えられてくるのです。
 問題だらけの生活の場こそが、私の姿が知らされてくる場所だったというふうに言わざるを得ないような、そういう突き上げてくるものと言った方がいいでしょう。そういうものが私たちに闇としてあり、闇の中から確かな教えが聞かされてくるというふうにいただきたいものです。

浅田正作
石川県松任出身。『念仏詩集・骨道を行く』という詩集の一節。

竹部 俊惠氏
真宗大谷派 妙蓮寺住職(富山県)

真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2019 09