暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 人間の抱く「悲願」は、どうしても実現しようと心から念じている「悲壮な願い」を意味します。人間の思いに根ざした願いなのです。したがって、この人間の悲願は成就すると勝者が誕生する一方、同時に必ず敗者が生み出され、そこに人の世の不幸が立ち現れるのです。この矛盾をいかに受けとめていけばいいのでしょうか。いずれかが善であり、いずれかが悪であると簡単に決め込むことはできません。ただ、この矛盾を深い悲しみとして抱きとめてくださる世界があるのです。如来の悲願です。
 「悲願」とはもともと仏教語なのです。必ず「如来の悲願」、「菩薩(ぼさつ)の悲願」として表現され、私たちの日常の「悲願」とは区別されます。悲願の「悲」は如来の悲しみであり、引き裂かれた心、どうにもならない現実への悲哀です。私たちが自分の目的のために是が非でも達成しようとする悲哀な心とは質を異にします。如来はどのような者であれ私たちの姿をじっと見ていてくださり、私たちの出口なき悲惨な姿に御身が引き裂かれ、私たちが救われなかったならば如来ご自身も如来として生きていけないと悲しまれる心です。
 如来ご自身が理想的な世界にいて幸せと歓びに満ちあふれているとしたら、本当に私たちに寄り添うことはできません。如来の「悲」とは、如来ご自身の救われざる悲しみにおいて私たちに寄り添う心、私たちと一つになる心です。
 つぎに悲願の「願」とは、その「悲」を根拠として私たちにはたらきかける如来の「願い」です。私たちはわが身の現実や未来に立ちはだかる大きな壁の前でうめいています。如来は、そのうめきに寄り添ってくださって、壁を乗り越える道がお念仏(ねんぶつ)の道として開かれていることに、どうか気づいてくださいと私たちに「願」ってやまないのです。
 「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足(ぼんのうぐそく ※)の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」『歎異抄(たんにしょう)』
 如来は、かねてより、私たちの本当の姿をお知りになってくださっていて、「汝(なんじ)は煩悩具足の凡夫なのです」と呼びかけてくださっているのです。私たちは、その呼びかけのなかに、わが身の罪業(ざいごう)の根深さ、割り切れなさ、悲しみの深さを知らされ、人間として本当に悲しまなくてはならないことに無関心であったわが身に目覚めるのです。如来の悲願なしに、悲しみの凝視はありません。

煩悩具足
様々な煩悩をすべてそなえて生きていること。

大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 02