仏教の教えについて

言の葉カード

 言葉に込められた願いを聞きとった時、その言葉は生きた教えとして私の上に響いてくる。そして、その言葉や願いを通じて教えを示してくださった存在を「諸仏」と親鸞聖人は仰がれたのである。仏という存在も、教えということも、はじめからどこかにあるものではない。偉い方の仰せだから教えになるというわけではない。言葉に願いを聞きとった時、はじめてその言葉が自分をつき動かす教えとなり、そしてその教えを示してくださった存在が、私を目覚め立たせる仏なる存在となるのだ。
 この和讃(※)の中で「仏の御名(みな)をきくひとは」とあるが、「きく」とは、願いを聞きとるという意味であろう。

 生前中は、居てくれるのが当たり前という思いがあったからであろうか。あらためて父の存在に思いを寄せるということはあまりなかった。
 しかし父亡き今、ことあるごとに「親父ならこんな時どうしていたのだろう」と、父について思いを馳せている。思えば、生前中は毎日顔をつきあわせていても、本当の意味で父と出会えてはいなかったのだろう。むしろ父を失った今、より確かな存在として父と出会えているのかもしれない。そして今、父が私に託してくれていた願いを、この身に感じながら生きている。

 人は、時に逃げ出したくなる弱さを抱えながらも、そういう願いに背中を押され、歩みを進めることができるのだ。願いに目覚め立って、決してそっぽを向かず、逃げ出すことなく、願いに生きる者となる。これが「不退にかなう」ということであろう。
 私にかけられていた「諸仏」の願い。その願いに押し出され、支えられ、ようやく私のような者でも、覚束ない歩みながら、退くことなく歩ませていただいている。

和讃
親鸞が人々に親しみやすくつくった詩

「浄土和讃」(親鸞)

中島 善亮氏
真宗大谷派 願成寺住職(秋田県)
『今日のことば(2017年)』(東本願寺出版)より
教え 2023 06