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自分と他人との「距離」。相手によって、それは違う。例えば街中で、互いに顔を見合わせることとなくすれ違っていくような、数限りない第三者との関係性。あるいは、傍らにいるのがごくごく当たり前のような自然で近しい間柄。好き嫌いによっても違う。しかし、いくらつきあいの長い、親しい仲だからと言って、相手を十分に理解している、とは限らない。よく知ったはずの相手を前に―むしろ、よく知っていると思っているぶん―、ハッとさせられることがときにある。
そうした衝撃がやってくるのは、例えば「別れ」のときだ。田舎生まれの私には、物心つく前から中学卒業まで、中には高校までの20年近く、ずっと顔を合わせ続けた友人たちがいる。その中の一人は、父親の葬儀の折、ただ一言、「来てくれて、ありがとう」という声を絞り出した。母を亡くした別の友人は、目に深い悲しみを湛(たた)えて、こちらを見た。小さいときによく遊んだ友人の、いつも傍らにいてくれた「おばあちゃん」の最期を看取(みと)ったこともある。単身赴任でその場に立ち会えなかった友人と、のちに言葉を交わしたとき、彼と私、それぞれの複雑な感情が互いの中で確かに反響するのを聞いた。「知っていたはずなのに、知らなかった」「今、初めて気がついた」。これらはすべて、一つの、まったく新しい出会いだ。「よく知った」友人たちと、私はそのとき「初めて」出会ったのだ。
親しい当人との別れも、同じだ。「その人」は決して過去の思い出にはならず、「私」を「今、ここにある現実」へと押し出し続ける。親鸞さんは、29歳のとき師匠の法然(ほうねん ※)さんと出会うが、わずか6年で離れ離れになり、それっきりだ。しかし、親鸞さんの言葉に触れていると、そこにいつも法然さんの姿が浮かび上がってくるから不思議だ。言葉のうちに、存在がこもる。今生の別れを経てなお、師との出会いが何度も反復されていたのだと、わかる。
師匠の死を、親鸞さんはただ、「浄土にお帰りになった」と言う。法然さんは、仏さまの世界からこの世に現れ、今、そこに再び戻ったのだと。それは、自分の師匠がいかに優秀で特別な人間であったかを褒めそやす言葉ではなくて、自分と師匠との、生き生きとした「出会いの現場」を語るものだ。「仏さまの世界」から浮かび出る相手の姿は、向き合う私自身を浮き彫りにする。当たり前だと思っているこの世界に、「本当にそうか?」と問いかけてくる。生前も死後も、法然さんは親鸞さんの前に繰り返し現れ、何度も気づかせてくれたのだろう。会いがたき出会いによって、人は歩むのだと。
- 法然(1133~1212)
- 日本の僧で浄土宗の開祖
『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』(親鸞)
内記 洸氏
真宗大谷派 徃還寺(岐阜県)
首都圏広報誌『サンガ』156月号より
教え 2023 08
「慈悲」は「仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)をあわれみ、いつくしむ心」(『広辞苑』)と辞書にあります。
ところが、親鸞は『歎異抄(たんにしょう)』(第四条)で、「慈悲」には二つがあり、一つは人間の起こす「聖道(しょうどう)の慈悲」であり、もう一つは、阿弥陀(あみだ)さんの起こす「浄土の慈悲」だと言います。「聖道の慈悲」とは、人間が「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり」と押さえ、「しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」と限界のあることを教えます。確かに、愛する者との別れを経験しない人間はひとりもありません。それは自分が他者を愛することへの断念を教えます。しかし、この断念は絶望に終わるものではなく、ここが阿弥陀さんの慈悲、つまり「浄土の慈悲」が開かれる契機になるのです。
「聖道の慈悲」とは、人間の愛情のことです。悲しいかな、人間は自分の望んだ形でなければ「愛」を感ずることはありません。つまり、人間の「愛」とは、愛する者を自分の思いのままに愛したいという欲望から起こるものなのです。たとえば「死別」という別れは、自分の欲望の対象を奪われることです。ところが、この「死別体験」をした者を、阿弥陀さんはことに悲しみ、「浄土の慈悲」を起こされます。『歎異抄』は、「浄土の慈悲」を「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心(だいじだいひしん)をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり」と語ります。この「念仏して」ということの第一義的な意味は、口で南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と称えるということではありません。悲しみも喜びも、洗いざらい、自分のこころのすべてを阿弥陀さんにおまかせせよという命令こそが、「念仏して」ということの真意です。「死別」は悲しみの体験ですから、涙が涸れ果てるまで泣くしかありません。でも、やがて涙を拭うときがきたなら、顔を上げ、再び生き始めるのです。その時が、亡き人も、自分も共に、阿弥陀さんの慈悲に包まれるときなのです。亡き人だけでなく、自分も共に救われることを、「浄土の慈悲」と言うのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2023 08
亡き人をご縁にして勤める仏事は、まず亡き人をしっかりと思い出すという意味がある。そして、亡き人の面影を通して、亡き人から学ばなければならないことを学び直すという意味があるのだと。その面影は、遺された言葉かもしれない、何気なく交わした会話かもしれない、生前の生き様かもしれない、息づかいかもしれない。かたちは様々でしょうが胸の奥に刻まれた亡き人の面影が必ずあるはずです。その面影から学ばなければならないことを学び直すのです。
我々は亡くなった方を仏様とお呼びします。しかし仏という言葉には故人という意味はありません。仏とは、本当に大事なことを覚(さと)り、そのことを我々に教えてくださる方という意味があります。
そういう意味で、亡き人から本当に学ばなければならないことが学べたとき、我々は亡き人を仏様とお呼びできるのでしょう。仏事とは、亡き人と仏様として出遇(あ)い直す場所と時間なのだと思います。
谷 大輔氏
真宗大谷派 良覺寺住職(滋賀県)
『花すみれ』2021年1月号(大谷婦人会発行)より
法話 2023 08
「ねばならない」とか、「こうすべきだ」という、私はそういう生き方が割と強かったものですから、それで心も体もずたずたになった経験があって、今ではそれは違うなと思っているんですね。台風の後、丈夫な木が折れて、へなへなな木が残っています。へなへなでいいんじゃないかと思ったんですね。人に優しくというけれども、まず自分を痛めつけたら、それはもう違いますね。だから、しなやかな心で、喜びをもってやらなければ何も実にならないと気づいたんです。
アンパンマンについて自己犠牲という言い方がされますが、やなせ先生が私に言ってくださったのは、犠牲じゃないんだ、アンパンマンは幸せなんだ、と。自分の役割に気づき、それを喜んで生きているから幸せだよ、と。そう言われてみると、パンをちぎって食べて、美味しいという誰かの顔を見て、「ぼく胸がほかほかだよ」「ぼくはこのために生まれたんだね」と言っているんですね。だから自分の力に気づいて、自分の役割を果たしたときに、人って本当に幸せなんだと思います。
私は31年間バタコさんの声を演じています。バタコさんは少し地味なタイプですが、先生は「バタコさんは美しい」と仰いました。バタコさんは自分の得意な事でみんなの役に立ち、その生き方に喜びを感じています。シンプルな服なのも、飾る必要が無いからです。きっと、生き方そのものが美しい、と仰ったんだと思います。今はその美しさがよく分かります。そしてバタコさんの役は「行ってらっしゃい」と「お帰りなさい」の役だと。私は若かったので、もうちょっと活躍せんのかい、と思ったんですけど、先生は「行ってらっしゃい」と「お帰りなさい」がすべてで、その間に人生があるのだと。それが一番大事なんだと言ってくださったのが、ずっと胸に残っています。
佐久間 レイ氏
声優・劇作家
真宗会館広報誌『サンガ』163号より
著名人 2023 08