暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「不思議」とは「よく考えても原因・理由がわからないこと、また解釈がつかないこと。あやしいこと」などと辞書にあります。だから「不思議」という言葉は「宗教」と結びつきやすいのでしょう。「不思議な奇蹟を信じるのが宗教だ」と言われれば、そうかなぁと思ってしまいます。しかし、親鸞の言う「不思議」は、明確な自覚を表します。訳の分からないことを信ずるものではありません。自分にとって一番身近な自分が、自分自身にまで成ってきたいのちの成り立ちを考えれば、まさに「不思議」と驚嘆するしかありません。

 私はなぜ「人間」として生まれたのでしょうか。そう問われても、答えることができません。人間が男女という両親から生まれるものならば、親は二人、祖父母は四人、曾祖父母は八人です。さらに遡っていけば、先祖は倍々に増えていき、三十代前の先祖の数は、なんと、十億七千三百七十万人にもなります。「十億七千三百七十万人」と、一口に言っても、そこには様々な人々の出会いがあり、それぞれの人生があったことでしょう。もし、この十億七千三百七十万人の中の一人でも、この世に存在しなければ、私は、いまここに居ないのです。そう考えると、自分という存在の不思議さに驚きます。自分は、まさに十億七千三百七十万人の出会いの結晶なのです。

 この身体を見るとき、改めて「これは私の所有物ではない」と知らされます。これは架空のことではなく、紛れもない事実です。この事実に触れたとき、人間は、初めて「不思議」を実感できます。いままで自分が存在することを「当たり前」だと感じていた暗いこころが、「不思議」に出会うことによって、ハッキリと、いのちを吹き返すのです。

武田 定光氏

真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2022 11