仏教の教えについて

言の葉カード

 仏教においては、共に生きることを「共業(ぐうごう)」と教えられています。共業とは、文字どおり「業を共にする」という意味で、平たい表現でいうならば、人間は互いに悩みや苦しみを抱えた「弱者」であるという関係性を共にすること、と表現することができましょう。つまり、この「共業」という共生の世界観は、互いに、いまだ「さとり」を得ていない者であるという意味での「弱者」を自覚しないと実現できないのです。そのような意味においては、私たちの日常生活は、「不共業(ふぐうごう)」を生きているといえましょう。
 親鸞聖人は、そのような「不共業」を生きている存在として「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」とおっしゃっています。この言葉は、不共業を生きている身の自覚といっていいと思います。その不共業を生きている我が身という自覚とは、如来より教えられている「共業」という世界観に聞き、学んでいこうという姿勢に他ならないのです。それは、「いずれの行もおよびがたき身なれば」というように、自らが「さとり」を開き「金剛不壊の心」を得ていこうという思想でもありません。むしろ、互いに悩みや苦しみを抱えた「弱者」であることを自覚し、「とても地獄は一定すみかぞかし」として、共に「共業」という仏様の世界観に聞こうとする、誰の上にも成り立つ仏道を追い求められたのだと思います。

『歎異抄(たんにしょう)』(唯円)

頼尊 恒信氏
真宗大谷派 聞稱寺(大阪府)
月刊 『同朋』2015年6月号(東本願寺出版)より
教え 2020 10