暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「迷惑」という言葉、皆さんはどんな時に使っていますか。
 「あの人ほんとうに迷惑だわ」。
 だいたいは、自分に迷惑をかける人(他者)に対して、非難の気持ちを込めて使うことが多いのではないでしょうか。あるいは逆に、「人に迷惑をかけたくない」などと、自分が誰か(他者)に迷惑をかけるというふうに使います。
 けれども「迷惑」という言葉をよく見てみると、「迷」は「迷う」ですし、「惑」は「惑う」です。いったい誰が迷い惑っているのでしょうか。「迷惑」なのは誰なんでしょうか。
 一度立ち止まって、じっくりと考えてみる必要があるように思います。

 親鸞聖人は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』という書物に自分自身のことを振り返って次のようにおっしゃっています。

 誠に知りぬ、悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証(しんしょう)の証に近づくことを快(たのし)まざることを、恥ずべし、傷むべしと。
(『真宗聖典 第二版』285~286頁)

 〔意訳〕誠に知った。なんと悲しいことか、この愚禿鸞は、はてしなく広がる愛欲の海に沈没し、名利の太山に迷惑して、浄土に往生して仏となることが定まった聚の数に入ることを喜ばず、真の証を証ることに近づくことを快しまない、恥ずべし、傷むべし、と。
(『解読教行信証』東本願寺出版)

 ここでは、「迷惑」という言葉は、「他者」に対してではなく「自己」に対して使われています。「誠に知りぬ」とは「思い知った」ということでしょう。「名利」とは「名聞利養(みょうもんりよう)」のことで、人にどう思われるか(名聞)、どれだけの儲けがあるか(利養)ということです。そのことが、そこに迷い込めば二度と出てこられないとても大きな山(太山)にたとえられているのです。
 人にどう思われるか、どれだけの儲けがあるかということばかりに囚われ迷惑しているのは、自分自身(愚禿鸞)である。なんと悲しいことか。恥ずべし、痛むべしである。これが親鸞聖人の吐露なのです。
 「迷惑」という言葉は、人を非難する言葉でも自分を卑下する言葉でもなく、自分自身を悲しむ言葉なのだと、親鸞聖人の言葉から教えられるのです。

吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長

仏教語 2026 03