2026年弥生(3月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 仏典は、さまざまな譬喩(ひゆ)(たとえ)や物語によって、教えの内容を分かりやすく伝えようとしています。標題のことばの出典である『大智度論(だいちどろん)』は、『般若経(はんにゃきょう)』の注釈書であり、古代インドの龍樹(りゅうじゅ ※)が著したと伝えられています。この『大智度論』もさまざまな譬喩によって経典の内容を解説しています。
 仏教の経典は、多くの場合「如是我聞(にょぜがもん/このように私は聞きました)」という文言から始まります。『大智度論』は経典の注釈書ですから、まずこの言葉の解説をします。経典では「如是我聞」に続いて、釈尊(しゃくそん ※)がどこでその教えを説いたのか、その場にどのくらいの仏弟子たちが集まっていたのか、そして主な仏弟子が誰だったのかが記されます。標題のことばは、釈尊が教えを説いた場所である「王舎城(おうしゃじょう)」という都市について説明する文脈に登場します。
 「王舎城」は、古代インドの大国・マガダ国の首都であり、商工業の発達とともに多くの人々が集まる大都市だったようです。釈尊の時代、そのマガダ国の王は、仏典にも登場するビンビサーラでした。成道(じょうどう ※)後の釈尊が、千二百五十人の仏弟子を連れて王舎城にやってきた際には、ビンビサーラ王は国民とともに釈尊と仏弟子たちを歓迎しました。そして竹林精舎を寄進するなど、釈尊に深く帰依した国王として知られています。
 しかし、多くの人々が集まる大都市であるが故に、王舎城の全ての人が釈尊の教えを仰いでいたわけではなかったようです。釈尊の教えを論難する者、釈尊に嫉妬して反逆しようとする者、釈尊の教えとは異なる道を歩もうとする者たちも多くいたと『大智度論』は伝えています。それにもかかわらず、どうして釈尊はこの王舎城で教えを説いたのか、『大智度論』はこのような問いを立て、それに答える形で標題のことばを述べています。すなわち、「毒草が多く生える地にこそ、その近くに必ず良薬があるのだ」と。
 釈尊が毒草の多く生える地に仏法を説き示そうとしたことは、現代における仏教のあり方とも関係しています。現代社会は、時に人間の都合のみが優先され、環境問題、国際関係などさまざまな分野において、多様な問題を生じています。問題が多ければこそ、人々は良薬を求めるでしょう。
 現代社会の諸問題の解決には、表面的な組織や制度の改革のみでは対応できません。問題のより深い根元には、人間のものの見方・考え方があります。問題が多い時代・社会であるからこそ、人間が正しいものの見方・考え方をすることによって、世の中の誤った方向性を是正していかなければなりません。毒草が多く生い茂る時代であるからこそ、仏教が世の中に開かれていく意義があるのではないでしょうか。

龍樹
二世紀頃の南インドの僧。大乗仏教の確立に大きな影響を与えた。
釈尊
お釈迦さまのこと。
成道
さとりを開き、仏となること。

『大智度論』(龍樹)

大谷大学HP「きょうのことば」
(2025年9月)より

教え 2026 03

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「迷惑」という言葉、皆さんはどんな時に使っていますか。
 「あの人ほんとうに迷惑だわ」。
 だいたいは、自分に迷惑をかける人(他者)に対して、非難の気持ちを込めて使うことが多いのではないでしょうか。あるいは逆に、「人に迷惑をかけたくない」などと、自分が誰か(他者)に迷惑をかけるというふうに使います。
 けれども「迷惑」という言葉をよく見てみると、「迷」は「迷う」ですし、「惑」は「惑う」です。いったい誰が迷い惑っているのでしょうか。「迷惑」なのは誰なんでしょうか。
 一度立ち止まって、じっくりと考えてみる必要があるように思います。

 親鸞聖人は、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』という書物に自分自身のことを振り返って次のようにおっしゃっています。

 誠に知りぬ、悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証(しんしょう)の証に近づくことを快(たのし)まざることを、恥ずべし、傷むべしと。
(『真宗聖典 第二版』285~286頁)

 〔意訳〕誠に知った。なんと悲しいことか、この愚禿鸞は、はてしなく広がる愛欲の海に沈没し、名利の太山に迷惑して、浄土に往生して仏となることが定まった聚の数に入ることを喜ばず、真の証を証ることに近づくことを快しまない、恥ずべし、傷むべし、と。
(『解読教行信証』東本願寺出版)

 ここでは、「迷惑」という言葉は、「他者」に対してではなく「自己」に対して使われています。「誠に知りぬ」とは「思い知った」ということでしょう。「名利」とは「名聞利養(みょうもんりよう)」のことで、人にどう思われるか(名聞)、どれだけの儲けがあるか(利養)ということです。そのことが、そこに迷い込めば二度と出てこられないとても大きな山(太山)にたとえられているのです。
 人にどう思われるか、どれだけの儲けがあるかということばかりに囚われ迷惑しているのは、自分自身(愚禿鸞)である。なんと悲しいことか。恥ずべし、痛むべしである。これが親鸞聖人の吐露なのです。
 「迷惑」という言葉は、人を非難する言葉でも自分を卑下する言葉でもなく、自分自身を悲しむ言葉なのだと、親鸞聖人の言葉から教えられるのです。

吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長

仏教語 2026 03

僧侶の法話

言の葉カード

 ヤドカリは貝殻や時には海に漂うペットボトルなどを借りて自分の殻としている生き物です。漢字では「宿借」とも書くようです。もちろん、この殻は借り物ですので、殻の部分は「自分」ではありません。
 この言葉(詩)にあるように、自分ではないもの(殻)を自分だと言ったらおかしいですね。しかし、その自分ではないものを自分だと思っているおかしな存在が私(人間)であると作者は言います。
 ヤドカリの殻は分かりますが、私たちの「殻」にあたるものは何でしょうか?
 そもそも「殻」とはどういうものでしょうか。動物や植物の実や卵の外殻を指すほかに、辞書には「外界から自己を守る外壁」とあります。
 「殻」とは自分を守るもののことです。そして、その「自分」とは、具体的な身体ももちろんありますが、ここでは自分という存在そのものを指すのだろうと思います。もう少し言えば、自分の立場やプライド、といったものではないでしょうか。
 では、私たちは何によって自分の立場やプライドを守ろうとしているでしょうか。
 生き物は、自分を守るために様々な工夫をします。頑丈な殻を持つこともそうですし、自分を大きく見せたり、強そうに見せたり、反対に小さくなって存在感を消したり、周りと同化して見えにくくしたり、毒を持っているように見せたり…。
 人間も、これと同じような工夫して、自分という存在を守ろうとしているのです。「殻」を使って本当の自分をうまく隠し、そして、自分を守るための殻でお互いにぶつかり合って傷つけ合っているのかもしれません。
 この詩に立ち返ると、そのような殻は殻であって、本当の自分ではありません。
 殻の中の本当の自分は、どんな自分ですか?

浅田 正作氏
詩人

伊那西高等学校HP「こころの掲示板」より
法話 2026 03

著名人の言葉

言の葉カード

 上の子を妊娠していた時の話ですが、出産を終えた大学の後輩のところに遊びに行ったんです。彼女は仕事を辞めて専業主婦になっていたんですが、周りのママはみんな育休中。「仕事は何をしているの?」と聞かれたので「家事と育児です」と答えると、「うん、で、仕事は?」と問い返される、と。彼女は冗談っぽく話してくれましたが、他のママにとっては、家事と子育ては仕事じゃないということですね。働きながら子育てすることが当たり前になり始めた頃の話です。時代が大きく変化する、その狭間にいる人たちを書いてみたくなり、『対岸の家事』を執筆しました
 この作品がドラマ化され、視聴者より多くのご意見をいただきました。対立や分断を越えて、人と人とが手を取り合っていく姿がよかった、という感じの意見が大半を占める中、「結局ここで描かれているのは個人としての孤独だ」とのご指摘にはハッとしたんです。現代では、自由な生き方が当たり前になり、それぞれの多様性が重視されています。ただ、それは同時に、自分と同じ生き方をしている人が減ったということでもあります。子育て一つにしてもご家庭によってさまざまですからね。
 小説の登場人物である専業主婦の詩穂と働くママの礼子、育休中のエリート官僚でパパ友の中谷。この3人を結んでいるのは同じ年頃の子どもを育てているという事柄だけで、子育てが終わればまた別の生活が始まる。教育方針が違うから、いずれはバラバラになっていくかもしれませんね。詩穂と夫の虎朗(とらお)だって育った環境が全然違うから分かり合えないことが出てきて当然です。先ほどのとおり、登場人物はみんな絶対的な孤独を生きていて、それは現実を生きる私たちもまた同じ。今はプライベートに踏み込みづらい風潮がありますが、『対岸の家事』という作品が立場の違う人同士のコミュニケーションのきっかけとなればと思っています。

朱野 帰子(あけの かえるこ)氏
作家

真宗会館広報誌『サンガ』198号より
著名人 2026 03