「発起(ほっき)」という言葉は一般的に、「発起人になる」、「一念発起する」というふうに使われます。思い立ったり、決意したりという勇ましい感じがする言葉ですね。
「発」は、はなつ(発射)、ひらく(発見)、あばく(摘発)、つかわす(発遣)、おくる(発送)、たつ(出発)、でる(発芽)、おこる(開発)、あらわす(発表)などたいへん多くの意味を持つ言葉です。「起」は、おきる、たつ、おこすという意味があります。
いずれも「おこす」とか「おこる」という意味の言葉です。この言葉は、仏教、特に親鸞聖人の教えにおいては、どのように使われているのでしょうか。
親鸞聖人は、次のような詩(うた)を「和讃(わさん ※)」にうたっています。
釈迦弥陀(しゃかみだ)は慈悲(じひ)の父母(ぶも)
種種(しゅじゅ)に善巧(ぜんぎょう)方便(ほうべん)し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり
(『真宗聖典 第二版』600頁)
〔意訳〕釈迦如来(しゃかにょらい)と阿弥陀仏(あみだぶつ)は慈悲の父母です。種々の巧みな手立てで私たちのこのうえもない信じる心をおこしてくださったのです。
私たちの信じる心(信心)は、お釈迦さまと阿弥陀さまが私たちの上におこしてくださった心だというのです。
そもそも、私たちは「心」を私の努力によっておこすことができるのでしょうか。喜ぶことも悲しむことも、人間の喜怒哀楽は私の努力でおこすことはできないのです。「おこす」のではなく、何らかの縁にもよおされて「おこる」のでしょう。
信じる心も私の努力でおこすことはできません。そのおこすことのできない心が私の上におこっている。これを「他力の信心」といいます。
「信心」と言わずとも、あらゆる心はおこるものであると理解するなら、人生のいろんなことも大切に受け止めていくことができるのではないでしょうか。
- 和讃
- 親鸞が人々に親しみやすくつくった詩
吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長
仏教語 2026 04