2026年卯月(4月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 電車に乗っていたときのこと、窓からの風景をぼんやり眺めていたら、ある言葉が目に飛び込んできました。
 天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)
 それは、道路の橋脚に黒のスプレーで書かれた大きな大きな落書きでした。まだ新しく、誰が、どのような思いで書いたのだろうかと思いを巡らせました。「天の上にも天の下にもただ我独り尊し」。これは、釈尊(しゃくそん ※)の誕生にまつわる有名な言葉ですが、ときに「自分だけが偉い」という傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の意味で使用されることがあります。
 しかし、この言葉は本来「私はこの世においてただ一人だからこそ尊い」という、一人ひとりの尊厳性を表す言葉として理解されます。私たちは誰もがこの世界において唯一の存在であり、ただ一度限りの人生を、ただ一回だけ生きるのです。この事実を「かけがえがない」とも「尊い」とも言うのです。釈尊は生涯をかけて、この大切な事実を、私たちに明らかにしてくださった人であるからこそ、この言葉は釈尊の誕生の場面とともに今日まで大切に受け継がれてきたと言えるのでしょう。
 さて、京都の大谷大学には、仏教を学ぶ授業があります。どの専門分野の学生もその授業で釈尊や親鸞聖人の生涯と基本的な教えを学ぶのですが、初めて学ぶ学生がほとんどです。そして、釈尊の誕生の場面においては、必ず先ほどの話をしてきました。私たちは誰もが「かけがえのない」「尊い」存在であるということを、仏教は伝えようとしていること。しかもそれは、誰かと比べて得る尊さではなく、比べる必要のない存在自体の尊さを表しているということを。
 この学びは学生の心に強く残るようです。比較の中で自分自身を位置づけるしかなかった学生にとっては、この仏教の視点は新鮮な驚きなのでしょう。おそらく、これまでの人生ではっきりとそのように教えられる機会を得てこなかったことの表れであろうとさえ思います。
 授業後の感想では、「いつも誰かと比較して息苦しい思いをしてきた」という学生の率直な声に触れることもあります。また、「自分が比べる必要なく尊いということは、当然、他者も同じだ」という大切な気づきに出会うこともあります。自己を正しく理解することが、他者を理解するために、そして、あらゆる人々と共に生きるために欠かすことのできない学びであるということを、学生の受け止めから日々教えられてきました。
 私たちは比べ合い、競い合う社会を生きています。その中でこの大切な事実を見失うことがないように、確かめ続けていかねばならないと思うことです。

釈尊
お釈迦さまのこと。

『ブッダの教え』
山田 恵文氏
真宗大谷派 安正寺住職(三重県)

真宗会館広報誌『サンガ』197号より
教え 2026 04

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「発起(ほっき)」という言葉は一般的に、「発起人になる」、「一念発起する」というふうに使われます。思い立ったり、決意したりという勇ましい感じがする言葉ですね。
 「発」は、はなつ(発射)、ひらく(発見)、あばく(摘発)、つかわす(発遣)、おくる(発送)、たつ(出発)、でる(発芽)、おこる(開発)、あらわす(発表)などたいへん多くの意味を持つ言葉です。「起」は、おきる、たつ、おこすという意味があります。
 いずれも「おこす」とか「おこる」という意味の言葉です。この言葉は、仏教、特に親鸞聖人の教えにおいては、どのように使われているのでしょうか。
 親鸞聖人は、次のような詩(うた)を「和讃(わさん ※)」にうたっています。

 釈迦弥陀(しゃかみだ)は慈悲(じひ)の父母(ぶも)
 種種(しゅじゅ)に善巧(ぜんぎょう)方便(ほうべん)し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり

 (『真宗聖典 第二版』600頁)

 〔意訳〕釈迦如来(しゃかにょらい)と阿弥陀仏(あみだぶつ)は慈悲の父母です。種々の巧みな手立てで私たちのこのうえもない信じる心をおこしてくださったのです。

 私たちの信じる心(信心)は、お釈迦さまと阿弥陀さまが私たちの上におこしてくださった心だというのです。
 そもそも、私たちは「心」を私の努力によっておこすことができるのでしょうか。喜ぶことも悲しむことも、人間の喜怒哀楽は私の努力でおこすことはできないのです。「おこす」のではなく、何らかの縁にもよおされて「おこる」のでしょう。
 信じる心も私の努力でおこすことはできません。そのおこすことのできない心が私の上におこっている。これを「他力の信心」といいます。
 「信心」と言わずとも、あらゆる心はおこるものであると理解するなら、人生のいろんなことも大切に受け止めていくことができるのではないでしょうか。

和讃
親鸞が人々に親しみやすくつくった詩

吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長

仏教語 2026 04

僧侶の法話

言の葉カード

 片付けものをしていたら机の奥から一枚の葉書が出てきた。
 「ようやくあたたかくなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。私は○○大学に進学が決定し、遅咲きながら桜が咲きました。これからもどうぞよろしくお願いします。○○○○」
 目の前にぱっと、明るい笑顔が浮かぶ。九州に生まれた彼女は、幼いときから父親の故郷の京都に憧れていて、中学生の時に祖父母をたよりに京都に来て、本校に入学した。
 生徒会や演劇部で活躍した彼女は、まさにバイタリティーのかたまりのようで、その後も活発に京都と九州を往来していた。訃報が届いたのは、この葉書をもらって間もない頃だったろうか。急な病で、まだ大学在学中のことだった。私は行けなかったが、九州の葬儀には仲間たちが駆けつけたらしい。
 二十数年も前の古びた葉書を見つめながら、はたと気づいた。私はこの葉書を数年前にも見て、同じことを思い出していたと。いや一度ではなく、何度も何度も…そして、そのたびにまた机の奥に大切にしまっていたことも…。
 彼女に会うことは二度とかなわない。いや、だからこそ私はこの葉書を決して捨てないだろう。そして、また数年後に葉書を見つけ、彼女の記憶を甦らせ、机の奥にそっとしまうのだろう…。
 彼女だけではない。私事で恐縮だが、光華女子学園にお世話になって三十八年、今年最後の一年を終えようとしている私は、ここで多くの「いのち」と出遇(あ)い、共に生きてきた。
 「ここには君を待っている人がいるんだよ。そのことを忘れてはだめだよ」くじけそうな時に力強く励まして頂いた上司も、「『宗教』の授業を聞いて、私のいのちも意味があるのだと思えるようになりました」難病に苦しみながら、しみとおるような笑顔を私にくれたあの人も…今は亡(な)い。
 しかし、その笑顔や声は今も鮮やかに私の中に残っている。
 「花びらは散っても花は散らない形は滅びても人は死なない」先達の言葉が、今実感を伴って甦る。
 みんな生きているのだ。私の中に。そしてつながっていくのだ。大きないのちの源に…。

 「前に生まれん者は後を導き、後に生れん者は前を訪(とぶら)え。」
 (道綽禅師/どうしゃくぜんじ ※ 『安楽集』より)

 「光華」という場で互いに遭い遇う、さまざまな「いのちの願い」が永久に受け伝えられていくことを念じつつ筆を擱(お)く。

道綽(562~645)
中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。

金子 大榮氏

光華女子学園HP「今月のことば」2019年2月より
法話 2026 04

著名人の言葉

言の葉カード

 幼いころの病が原因で、「聞く」だけでなく、「見る」ことも「話す」ことも思うようにできなかった人に、ヘレン・ケラーという方がいます。ヘレンさんは人々から「三重苦」と呼ばれるほどの「障がい」により、自分の外の世界とつながることができませんでした。しかし、人生の師であり友人であったサリバンさんと出会い、「指文字」を身につけることを通して、外界そして人とつながるようになりました。
 ヘレンさんは80歳を超えたある時、インタビューの席で「聞く・見る・話す」の内、ひとつだけ叶うとしたら、どれができるようになりたいかという、少々意地悪な質問を受けます。ヘレンさんは、その問いに「聞く」と答えたそうです。その理由を求められた彼女は、「心に光が入るのは耳からだからです」と答えたと伝えられます。
 私たちは生きていると、ちょっとしたことが原因で心を痛め、関係をこじらせてしまうことがあります。まるで光の当たらない深い闇に落ち込んだような悲しい経験をすることがあります。そんな私たちにヘレンさんの言葉は、「聞くことで心に光が届くことがあります。どうか聞くことを大事にしてください」という励ましに聞こえてきます。

ヘレン・ケラー
教育者(アメリカ)

真宗大谷派学校連合会
『生まれる 生きる 生かされる』

(東本願寺出版)より
著名人 2026 04