

Hさんが亡くなられた後、息子さんがお寺に参られた時のことです。息子さんの口から語られる父親の姿は、私の心証とまったく違っていました。親子の関係はうまくいっておらず、家庭内で複雑な問題を抱えていたというのです。お寺での姿と家庭での姿に違いがあるのは当たり前のことでしょう。私自身も門徒さんの前での私と家族の前での私は同じではありません。しかし、Hさんの違いようは想像以上で、まったくの別人と言ってもいいほどの違いに、私は大きな衝撃を受けました。
私はお寺という場で、門徒さん一人ひとりと丁寧に出あいたいと思いながら今まで歩んできました。しかし、そんな私の願いとはうらはらに、Hさんに紳士的でいなければお寺には参ってはいけないと感じさせるような雰囲気を作っていたのかもしれない、といういたたまれない気持ちが湧(わ)き出てきました。
身の縮む思いを抱きながら、あらためてHさんのやわらかな笑顔を思い起こしていた時、ふと親鸞聖人(しんらんしょうにん)のお言葉が私の中に現れました。
さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、
いかなるふるまいもすべし
(『真宗聖典 第二版』776頁)
『歎異抄(たんにしょう)』十三章にあるこのお言葉を「たとえ望んでいなくてもさまざまな縁が整えばどのようなことでもしてしまう存在が私である」と受けとめていました。Hさんとの思い出を通してあらためてこのお言葉と出あってみると、「自分にそのつもりはなくても、私は周りの人にさまざまなことをさせてしまう縁となる存在にもなり得るのだ」とも教えてくださっているように感じます。
私はHさんのことを知っているようで何ひとつ知らなかったのです。お寺でのHさん、家庭でのHさん、ほかにもHさんにはいろんな顔があったでしょう。そのどれもがHさんの姿なのです。人と出あうとはどういうことなのでしょうか。Hさんの姿を思い出すたびに「あなたは本当にこの方と出あっていますか」と親鸞聖人がHさんの姿を通して私に問うてくださっているようにも感じるのです。
『歎異抄』(唯円)
伊藤 江麻氏
真宗大谷派 德蓮寺(福岡県)
『お彼岸(2023年秋)』
(東本願寺出版)より
教え 2025 05