僧侶の法話

言の葉カード

 「人間は死を抱(いだ)いて生まれ、死をかかえて成長する」
 (『信國 淳選集』第六巻「第一部浄土」柏樹社)
 しかし、ともすると私たちはこの事実を見ようとしない。信國 淳(のぶくにあつし ※)先生はこの言葉について、「仏教では人間のことを「生死(しょうじ)するもの」と言っているが(中略)私どもの生きることそのこと自体が、(中略)一つの解決を要する課題として、私どもに与えられている」と表現している(同書より)。

 人間は、生を求める心で死を恐れ、若さを誇る心で老いを嫌い、罪なき清らかな自分を求める心で穢(けが)れた自分を憎んで生きている。その人間の不安、苦悩はどこで超えられるのか。
 信國先生は「真実の救い」は、「私どもが邪魔ものにする自分の存在の不安と、不安をなくそうとして迷うその迷いとをこそ当の縁として、私どもに私どもの外から来る」「音連(おとづ)れ」、「私自身に呼びかける言葉」である、と教えてくださっている。

 私が信國先生からの「音連れ」「呼びかける言葉」に出遇(あ)ったのは、今から五十年近く前のことである。汚れた醜(みにく)い自分をもてあまし、もう一度生きることを学びたいと、大谷専修学院に入学した。そこに70歳間近の信國先生がおられた。毎週一度の「歎異抄(たんにしょう)講義」は机を叩くように獅子吼(ししく)された。
 学院生活が終わろうとするレポート面接の場であった。学院では毎学期、自分の課題と学んだことを記し、先生方と面接する。私はその中で、「私のような自分だけのことしか考えないような者は、この場にいる資格がない」と語った。その時、「宮森君、君は自分さえ自分から締め出そうとするんだね。学院はそういう君も受け容(い)れるんだよ」と、先生はポツリと語られた。その言葉はいのちの底に響き、私は思わず声をあげて泣き出した。と同時に、宇宙よりも広い光り輝く世界、どんな者もそのまま受け容れ、そのまま愛する世界がある。その世界こそ本当に在る世界だと、体全体で感じていた。自分も生きていいのだと、初めて生きる希望と勇気が生まれてきた。そして、「ああ、親鸞聖人の念仏の教えとはこんなにも深いのか、一生かけて教えに学んでいきたい」と、新たな出発の時をいただいた。
 しかし、それは穢土(えど)ならぬ浄土という新たな世界の感得ではあったが、人生を生きる新たな自己は見えないままであった。私は、「人間の誠実さ」を唯一の拠(よ)り所として、人を傷つけた自分を責め、窒息しそうに生きていた。ある時、高史明(コ・サミョン)先生をとおして、「自分をギリギリ責めるのではない(そこには真実はない)。煩悩具足(ぼんのうぐそく ※)の凡夫(ぼんぶ)のままで(あなたがあなたのままで)生きていける一本道がある。念仏の一本道だ」という声が聞こえてきた。それはどんないのちも尊ぶ浄土から届けられた言葉であった。いのちを生きる一筋の道があると感得された。

信國淳
1904~1980。真宗大谷派の教育機関である大谷専修学院の元学院長。
煩悩具足
様々な煩悩をすべてそなえて生きていること。

宮森 忠利氏
小松大谷高等学校 元副校長

『今日のことば(2020年)』(東本願寺出版)より
法話 2024 06