暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「安心(あんしん)」と読めば「心配や不安なことがない状態」ですね。しかし〈真宗〉で「安心(あんじん)」と読めば、「他力の信心」のことです。つまり「他力」ですから、阿弥陀(あみだ)さんが私に「信ぜよ」とはたらきかける「心」のことです。決して、自分の内面に溜め込むようなこころではありません。自分のこころは喜怒哀楽に翻弄されて、一時も「安心」はありません。阿弥陀さんが「信ぜよ」と命令を下されるとき、その「信ぜよ」という言葉に「安心」が乗り移ってくるのです。
 もし「安心」が獲得されてしまい、揺れることのない固定的な「安心」であれば、それは「安心」とも言えません。『歎異抄(たんにしょう)』(第九条)で、弟子の唯円房は、信仰がマンネリ化してしまい「安心」が吹っ飛んでしまったと告白します。それに対して師の親鸞は、「安心」がなくなったからこそ頼もしく有り難いと答えます。
 「安心」を奪うものは煩悩(ぼんのう)のはたらきですが、この煩悩に狂わされるものをこそ救い取ろうと阿弥陀さんは関わって下さるのだ。だから、むしろ「安心」の揺らぐことが救いの確実な証明であり、有り難いのだと言うのです。
 ここまで来ると、私達が「安心」という言葉に持っている印象がだいぶ変わってくるのではないでしょうか。「安心」は一回獲得すれば一生涯失うことがない「安心立命」の境地のように思われますが、そうではないのです。揺れ動いているからこそ本当の「安心」なのです。揺れ動かして下さっているのも阿弥陀さんです。これが私達に関わって下さる阿弥陀さんの具体的な姿だったのです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2022 02