2021年葉月(8月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 私どもがいちばん大切にしている経典のひとつである『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう ※』に、「兵戈無用(ひょうがむよう)」(軍隊も武器もいらない)という言葉が出てきます。それはどういう文脈で出てくるかというと、まずお釈迦さまが、人間のつくるこの世間は「五悪(ごあく)」という5つの大きな問題をはらんでいるということを説いていきます。そして、そうした問題があることをみんなに気づいてもらうために自分は教えを説いているのだとして、その教えが及ぶところは「国豊(ゆた)かに民安(やす)し。兵戈用いることなし」と語られるのですね。しかし、自分の没後はその教えも衰退し、人々はまた悪を犯すようになるだろうから、そのときにはしっかりと仏道を説いてほしいと伝えるのです。
 そして、ここが肝心なのですが、お釈迦さまはそれを弥勒菩薩(みろくぼさつ)に向けて説いているのですね。弥勒菩薩というのは、56億7千万年後に兜率天(とそつてん)からこの地上に降りて法を説くとされている未来の仏です。56億7千万年後って、気の遠くなるような数字ですが、言うなればそれは永遠の未来です。つまり、兵戈無用とは、過去から未来へ向けて歴史を貫く永遠の課題であり、その実現に向けて歩んでほしいという願いを、お釈迦さまは未来仏である弥勒菩薩に託したのです。それは、それが実現した未来からいつも現在の我々のあり方が照らされることになるわけです。

『仏説無量寿経』
浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。

『仏説無量寿経』

四衢 亮氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)
月刊『同朋』2016年8月号(東本願寺出版)より
教え 2021 08

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「覚悟」と言えば、「心構え」のことと受け取られますが、仏教語の「覚悟」は「真理に目覚め真理を体得する」という意味です。「覚」も「悟」も「さとる」という意味で、これは知的学習というよりも体験学習と言った方が近いように思います。それこそ禅宗では、坐禅を組み日常生活の行為全体が仏道だと教えます。浄土真宗も体験学習ですから、生活を通して学んでいくものです。真宗は「他力本願(たりきほんがん)」の教えだからといって何もしないものではありません。「他力」とは、生きていること全体が自分の思いを超えた世界であることを教える言葉です。
 私達は日常生活を大雑把に行為しがちです。しかし、丁寧に行為を見ていけば、そこに自分の思いを超えた世界が展開していることに目が覚めます。
 心に不調を来たした方がいました。その方は、鬱々(うつうつ)としてなかなか仕事ができませんでした。ところが、ある日、普段通勤時に降りていた駅のひとつ前の駅で降り、会社まで歩いたそうです。そうしたら、道端に咲いている小さな花や草たちが目に留まりました。普段の通勤では、そんなものは目に留まりませんでした。自分が不調になったお蔭で、いままで気にも止めていなかった世界が目に飛び込んできたのです。〈ほんとう〉の世界は、自分の思いを超えた世界だと、小さないのちが教えてくれたのです。これが「覚悟」のひとつの現れ方でしょう。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2021 08

僧侶の法話

言の葉カード

 大切な人を亡くした時、私たちは大きな喪失感を抱きます。もう会えない、声が聞けない、触れることは叶わない、そのような寂しさで胸がいっぱいになります。それは亡くなられた方が大切な人であればあるほど深い悲しみとして私たちの心を覆うでしょう。
 浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、『浄土和讃(じょうどわさん)』というご和讃(親鸞聖人がお詠みになった仏教讃歌)の中で、
  安楽浄土(あんらくじょうど)にいたるひと
  五濁悪世(ごじょくあくせ)にかえりては
  釈迦牟尼(むに)仏のごとくにて
  利益衆生(りやくしゅじょう)はきわもなし


という一首を詠まれています。このご和讃の中で親鸞聖人は、「浄土に往生した方は仏様となり、私たちの悩みや苦しみを照らしてくださる」とお示しになられます。
 大切な人を亡くした時、物理的にはその人と関わりを持つことは叶いません。しかし、それでその人とのつながりのすべてが終わってしまうかといえば決してそうではないのでしょう。その人が生きていかれたすがた、そして亡くなっていかれたそのすがたが、今を、そしてこれからを生きる私たちを支えてくれるということがあるのではないでしょうか。
 「こんな時、あの人だったらなんて言うかな」、「こんな時、あの人だったらどんな顔をするだろう」。私たちが生きていくうえで、亡き人の声が私たちを支えてくれる「はたらき」として在(あ)り続けていくのだと思います。そして、その「はたらき」のお名前を「阿弥陀(あみだ)さま」と私たちの先輩方は大切に呼んできてくださいました。
 そう考えた時、大切な人との別れは「終わり」ではなく、「はじまり」なのかもしれません。

荒山 信氏
真宗大谷派 惠林寺住職(愛知県)

『花すみれ』2020年12月号(大谷婦人会)より
法話 2021 08

著名人の言葉

言の葉カード

 これまで、筆舌に尽くし難いことを経験した人たちにお会いしてきて、その心の傷にふれる機会を与えられてきました。本当にぎりぎりのところを生きのびてきた人たちに接していると、「生きるって、どういうことなのだろう」とか、「優しさってどういうことなのだろう」といったことを考えさせられます。その中で、私自身は、人間存在の悲しさを強く感じています。なぜ、こんなに苦しいことが人を襲うのか、また、人と人が苦しめ合うのかといったことに悲しさを感じるのです。ただ、一方で、「ここに在(あ)る」ということが、何かおそろしくありがたいというか、奇跡のようなことではないかとも思うのです。

 今、この世界には、災害だけではなく紛争や迫害なども起きています。人間はいいことだけではなくて悪いこともたくさんしてしまいます。傷つけたくないけど傷つけてしまったり、慈しみ合いたいのに傷つけ合ってしまったり、ということもたくさんおきます。憎悪が連鎖していくこともあります。人間とは何かということが大きく問われている時期でもあると思うのです。
 傷を美化することはできないと思いますし、なければない方がいいと思います。ただ、傷をどう乗り越えていくかを考えると同時に、傷つけ合う中で生きざるを得ない人間の弱さに、ちゃんと向き合っていく。このことは親鸞聖人の教えとも通じるようですね。とても大事だなと思います。
 東本願寺(京都)の前で「今、いのちがあなたを生きている」という言葉を見た時、今在ることを受け入れるまではいかないまでも、受けとめていくことの大切さを感じました。

宮地 尚子氏
精神科医師・一橋大学大学院教授

「同朋新聞」2019年3月号(東本願寺出版)より
著名人 2021 08