僧侶の法話

言の葉カード

 蓮如上人(れんにょ ※)は「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに」と書かれた。浮生とは水にふわふわと浮いたような生です。立つべき大地を見失った生き方です。皆さんがお参りされるお葬式は亡き人をご縁にして仏法(ぶっぽう)さまに出遇(あ)うということですが、「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに」という呼び掛けをいただいているんです、お骨から。「あんたもお骨になるよ。生きとるんか、動いとるんか、どっちや」という呼び掛けです。
 私は、妻は坊守(ぼうもり)として、私は住職として、それぞれが仏法を聞いてきたという思いに立っていましたけども、いかにその呼び掛けに出遇うことが至難であることかが、たった一言で知らされた。初めて思いどおりにならない我が身に出遇った言葉が、妻の病床での「侮(あなど)っとった」という一言でした。
 私たちは、看病すれば回復するようなつもりで付き合います。死の縁に臨(のぞ)んだ人とした目で見ないです。それでも、老いて病んで死ぬということは、決して役に立たずではなくて、我が身の事実です。その我が身の事実を引き受けているのが、仏さまです。業縁(ごうえん)、この身です。そういう教えを聞いて、目が覚めていく。
 曽我先生(※)がおっしゃった「自分を信ずるときに、人を信ずることができるのであります」という言葉がありますが、その人の一生涯に頭を下げるということは、つまりそのまま我が身に頭を下げることです。やがて頭が下がることです。人身受け難い、この身を受けました。かけがえのないこの身なのです。

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶
曽我 量深(そがりょうじん/1875~1971)
…真宗大谷派の僧侶。当派の近代教学を象徴する人間の一人

藤井 慈等氏
真宗大谷派 慶法寺住職(三重県)

首都圏大谷派 開教者会
報恩講法話より
法話 2020 09