暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「流通」は、日頃は「りゅうつう」と言います。実は仏教語としても使われていて、「るづう」と読むのです。
 その昔、四世紀、中国の晋の時代に道安というお坊さんがいました。多くのすぐれた業績があります。なかでも経典の翻訳や解釈が顕著です。その業績の一つ、お経を解釈するにあたって、内容を大きく三分割する方法を最初に提案したのも彼です。序分(じょぶん)、正宗分(しょうしゅうぶん)、流通分(るづうぶん)の三つです。序分はお経が説かれる背景や動機や理由、正宗分は中心的な内容、本論です。流通分は説かれたお経の内容がどんな未来にも、どんなところにも広く伝わることが願われているのです。たとえば『仏説阿弥陀経』の「流通分」です。
 「仏、この経を説きたまうことをおわりて、舍利弗(しゃりほつ ※)およびもろもろの比丘(びく ※)、一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きたまえて、歓喜し、信受して、礼を作して去りにき」

 お経の内容がすべての人びとに聞き取られ、感動を開き、あたかも水が「流」れるように「通」じた事実が述べられて、仏さまの説法は終わります。ここで、「流通」したという事実が語られてご説法が終わるのは、いったいなぜなのでしょうか。
 お経は仏さまがさとられた道理(法)を述べた言葉です。その背景には自己満足(慢心)を克服して流通せずにはおかないという仏陀(ブッダ)の「悲願」、つまり、自らに気づき、どこまでも私たちに寄り添い、呼び覚ます「本願(ほんがん ※)の歩み」があるのです。
 そこには他者に無関心な自己主張、言いっぱなしはありません。この流通の事実は、仏さまの言葉が全てに伝わり、その真実性が自ずと証明されていくことを物語っているのです。仏さまの言葉自体に、すでにして流通力があるのです。
 一方、私たちは、はたして流通力のある言葉をもち合わせているでしょうか。自己満足に気づかないままに言葉を吐き、しかも、誰も解ってくれないと愚癡(ぐち)っているのかもしれません。その事実に気づかないのが悲しいのです。その悲しみの向こう側に仏さまの悲しみがあるのです。

舍利弗
釈迦の十大弟子の一人
比丘
僧侶
本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い

大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 05