「仏教は、都合よく生きられたら幸せだという夢から覚める教えです」という法語があります。私たちは、自分の都合よく生きられることが幸せだと思ってはいないでしょうか。けれども一方では、何か違うようだともきっと感じているはずです。しかし、釈然としないながらも結局は目の前の喜びを達成していこうとする。お金を儲けたり、いい家に住めばそれなりに達成感はありますから、自分をごまかせてしまうのです。
『正信偈(しょうしんげ ※)』の一節では、本当の願いに目覚めるなら、愚かな身のままで安らかな生き方が与えられるのだと言われています。自ら目覚めるのではなく、ハッと私の姿を知らされてうなずく。どうにもならずに行き詰まるとき、自分中心の思いで固められ、長く伸びた、えらそうな鼻が折られるのですね。それが「目覚めた私」だと思います。けれども、残念ながら長続きはしません。またすぐに都合中心の欲望の生活に戻ります。その繰り返しです。しかし、呼びかけを聞いていくことが大事なのです。大事な呼びかけを聞くことで、愚かな私であったとの目覚めの瞬間をいただいていけるのではないでしょうか。それが「ほんとうの私に出遇(あ)う」ことであり、そしてまた、思い描いてきた幸せという夢から覚めていくのです。
- 『正信偈』
- 正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)。真宗門徒が朝夕お勤めする親鸞が書き記した漢文の詩。
藤谷 真之氏
真宗大谷派 佛念寺住職(山梨県)
真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2018 12