教育委員を十数年させてもらっていますが、学校教育では学業やスポーツ等においてどうしても「優れた立派な人間を目指す」という落とし穴に陥(おちい)りがちです。それは凡夫(ぼんぶ)ではダメだという人間観を教えてしまうことになります。そうなると、一生懸命に取り組んでも思った結果の出ない子ども達は、寂しい思いや取り残された感覚にとらわれてしまいます。
日本に本当の意味で仏教を伝えてくださったと親鸞聖人も尊く慕われていた方に聖徳太子がおられます。その聖徳太子が作られた『十七条憲法』の十条に、
我必ず聖(ひじり)に非(あら)ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ(自分だけが立派で、自分以外の人が愚かということではありません。共に凡夫がいるだけです)
という言葉が出てきます。
私たちは、ついつい他人に誇れる自分を見いだして自分の人生の価値だと勘違いしてしまいます。そこに立つ時「自分と違う生き方をしている人」、「自分と違う考えを持つ人」を非難したり見下したりしてしまいます。それによって、相容(あいい)れない人を作り出して、自分と都合の合う人とのみ付き合うか、孤立してしまうことを聖徳太子は仏様の視点に立って教えてくださっています。
親鸞聖人が、「愚禿(ぐとく)」と名告(なの)られたところに、「愚かなるゆえに聞かせてください」、「愚かなるゆえに教えてください」、「愚かなるゆえにたすけてください」ということがあると思います。
「愚か」というところに自分と違う生き方や考え方の人の話も聞こえ、出会っていける共なる世界が開けてきます。そのことを「われなり」でなく「われらなり」と「ら」の文字をつけて呼びかけてくださっているように思えます。
『一念多念文意』(親鸞)
寺本 温氏
真宗大谷派 真蓮寺住職(長崎県)
『今日のことば(2018年)』(東本願寺出版)より
教え 2023 09
仏教は、人のいのちを「生死(しょうじ)」という言葉で受け止めます。普通は、「生」だけがいのちだと思われていますね。しかし、その「生」には必ず終わり、つまり「死」があるのです。人に「死」が訪れる条件は、老化・病気・事故などですが、根本原因は、誕生、つまり「生」以外にないのです。ですから、病気や事故に遭わなくても、人には必ず「死」があります。私たちは、オギャーと言って誕生しますが、実はこの時、「生」のみが誕生するのではありません。「生と死」が同時に誕生するのです。いのちを平等に見れば、「生死」こそ、いのちを正しく見た言葉だと言わなければなりません。
譬(たと)えれば、いのちは紙の裏表のような関係です。表には「生」が、裏には「死」が張り付いて1枚の紙のように成り立っているのです。ですから、「死」を遠ざけ、削り取ってしまおうとすれば、「生」も削り取ることになるのです。しかし、このいのちの厳粛な事実に目を背けず、ここに立ち止まるとき、初めて「必ず死ぬのに、なぜ生きねばならないのか」という問いが与えられます。この問いは、決して特殊な問いではなく、人類の誰もが突き当たる普遍的な問いです。
さて、この問いに目覚めてしまったなら、もう後に引き返すことはできません。この問いに対して、人類が取り得る態度は二つしかありません。一つは、「そんなことを考えても無意味だ」と、その問いに対して背を向けるか。あるいは、その問いに促されて、生きる意味を問おうと志すかです。仏教は、この問いに対して、誠実に応答してきた知の集積です。ただ、この問いに対する答えは、インスタントに手に入れることができません。また人から与えられるものでもありません。どこまでも、自分が求めて得たものでなければ、たとえ、それがどんな権威者からの答えだとしても自分自身の答えにはなりません。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2023 09
「悲しみ」の一つの姿に「泣く」ということがありますが、「泣く」ということについては、いつも二つのことを思い起こします。一つは、大学生の頃に父が末期癌になり、それを本人から聞いたものの、なかなか受け止められず、毎日毎日泣いていたこと。もう一つは、長男を出産した翌日、理由を把握する間もなくぽろぽろと涙が出ては止まらず、急激な落ち込みを感じたことです。喜びの涙とは違っていました。「生と死」という人間の根源的な問題に関わる場面で、私は全身で泣いていました。父が癌だと知った当時は、ベストセラーにもなっていた五木寛之さんの本をよく読んでいました。バブルがはじけ、暗さを増していく世の中にあって、やみくもに明るくしようとするのではなく、暗闇を感じる大切さ、「泣く」ことのススメのようなことを五木さんは繰り返し書いておられました。その言葉は止まらない涙を支えてくれました。長男を産んだ時は、不安が大きかったのでしょう。目の前の新しい命はただただ輝かしいのに、先の事を思うと不安がどんどん襲って来て、仕方なかったのだと思います。
「泣く」と、涙が出ます。涙は上から下に落ちる。喜びはどちらかというと下から上のイメージがあります。涙は私の内側から下にこぼれ落ち、地面に流れ、私の歩いていく大地にしっかり潤いを与え、豊かにしていく。「前向きに頑張れ!」とガッツな言葉だけが自分の行く末を支えていくのではありません。私自身、「生と死」に通底している「悲しみ」への出会いが、自身の人生を歩む大きな支えとなっています。
「悲しみ」が贈り物になる。そして下に流れ出る涙が多ければ多いほど、自分の歩く大地が潤うのだとしたら、悲しみをぎゅっと抱擁できるような気がします。
長野 文氏
真宗大谷派 正法寺坊守(長崎県)
真宗会館広報誌『サンガ』175号より
法話 2023 09
番組名(※1)の「OVER THE SUN」に「オバさん」が入っているのはダジャレですけれど、昔はもっと親しみを込めた中年女性の呼称として使われていたと思うんですね。でもだんだんと「もう若くはない」という評価の範囲でしか使われなくなった。そんな「オバさん」という言葉を自分たちの手に取り戻したかったのです。
「オバさん」はもっと生身の人間で、画一的な性格があるわけでもないし、もうちょっと面白く生きています。加齢することで心身の変化はあったとしても、若くはないことで減点されるような存在ではないと伝わればいいなと思っています。
嬉しいことに今、20代のリスナーさんが増えています。その人たちが口をそろえて、「歳をとることが怖くなくなった」「こんな感じでいいんだ」と言ってくださるんです。歳を重ねることが、主体性をもって自分の人生を重ねていくことなんだとわかってもらえたのかもしれません。
堀井さん(※2)は華やかな職業で結婚も出産も早かったけれど、私は独身のフリーランス。そんな生き方も価値観も異なる私たち二人のたわいない雑談を聞いて、どちらかに自分を重ねられることもあるでしょうし。
私の場合は、友達と取るに足らない話をしている中で、「なるほどそういう考えもあるのか」とか「私の思い込みが過剰だったんだな」と気づかされることが多かったので、リスナーさんもそんなふうに気楽に聞いてもらえているのかもしれません。
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- ポッドキャスト番組『ジェーン・スーと堀井美香の「OVER THE SUN/オーバー・ザ・サン」』
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- ジェーン氏と同世代のアナウンサー、堀井美香氏
ジェーン・スー氏
コラムニスト・ラジオパーソナリティ
月刊『同朋』2022年9月号(東本願寺出版)より
著名人 2023 09