釈尊(お釈迦さま)は最初に「人生は苦である」と説法されました。生きとし生けるもののすべてが、老い、病気になり、死ぬという定めを抱えて生まれてきます。この生老病死(しょうろうびょうし)の四苦は、誰も避けることのできないものなので、根本苦と言われます。そこに、人間が人間であるために味わう苦しみを四つ加えて、八苦とされました。その一つが「愛別離苦(あいべつりく)」です。
人間として生まれるということは、様々な苦しみを背負って生きる者として生まれることです。死別の苦しみは、失った人の存在が自分にとって大きければ大きいほど、その影響は生きている間続くので、慰められたり励まされたりしても、悲しみをなくすことはできません。ですから、悲しみを乗り越えようとするのではなく、そのことを抱えながら生きるという視点を持つことが大切なのではないでしょうか。
一般的に「生」と「死」は、それぞれ別のものとして語られますが、仏教では「生死(しょうじ)」と言い、生と死を平等に見つめます。生まれたら必ず死ぬいのちだからこそ、今この時を生きていると実感できるのだと思います。『正信偈(しょうしんげ ※)』の「生死即涅槃(しょうじそくねはん)」など宗祖(親鸞)の著作や、浄土教の経論にも「生死」という言葉が頻出します。仏教のこの視点は、死を忌避して生のみに着目する世間のあり方に対し、亡くなった人に哀惜の念を持ち続ける喪失感を支える力になっているのです。
諸行無常(しょぎょうむじょう)の世に生を受けた私たちは、日々新たな出会いをし続け、出会えば必ず別れがもたらされ、最期には出会った全てと別れなければなりません。死別後の寂しさ悲しさは、亡くなった人によって認識されていた自分が失われるからで、その喪失した部分は誰も埋めることができません。けれども、関係性を生きる者として生まれた以上、苦悩を抱えている人にとって、その苦しみをそのままに大事に聞いてもらえる新たな関係性が必要なのではないでしょうか。それによって、喪失を経験したからこその出会いや気付きや学びがあると思います。
誰もが皆、それぞれの愁いを胸に抱えながら生きているのです。
- 正信偈
- 正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)。真宗門徒が朝夕お勤めする親鸞が書き記した漢文の詩。
『ブッダの教え』
楠樹 章麿氏
真宗大谷派 妙蓮寺前住職(奈良県)
「南御堂」新聞2021年7月号(難波別院)より
教え 2022 10
現代語で「精進」と言えば、「精進料理」を連想しますが、元々の意味は「ひたすら仏道修行に励むこと」です。これが「仏道」の一般的なイメージではないでしょうか。ところが親鸞は、
『不得外現(ふとくげげん) 賢善精進之相(げんぜんしょうじんしそう)』(散善義/さんぜんぎ)というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり
『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』
と述べています。これは善導大師(ぜんどうだいし ※)の言葉の解説ですが、親鸞は「精進なるすがたをしめすことなかれ」と否定的に受け止めています。
親鸞は「ひたすら仏道修行に励むこと」そのものを否定しているわけではありません。「ひたすら仏道修行に励むこと」は尊いことです。ですから、他人から「あなたも一生懸命に仏道修行しているじゃありませんか」と言われても、そんなことは意に介しません。他人から見てどう見えようとも、そんなことは問題ではないのです。
親鸞が問題にしているのは「自分はしっかり精進している」という思いです。「自分はしっかり精進している」という思いは、自力の思い上がりから起こってくるのです。たとえ自分が「四六時中、仏道修行をしている」と思っても、自分のこころが思っているだけのことで、それが「本当の精進と言えるのか」と問われているのです。もちろん問うているのは、自分ではなく阿弥陀(あみだ)さんです。自分で自分を問うのであれば、やはり「自分の思いの中の出来事」に過ぎません。自分の思いを超えた阿弥陀さんから問い詰められたから、そのように表現できたのです。
- 善導(613~681)
- 中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2022 10
あるお寺の掲示板に「一生懸命頑張って生きることよりもこの世をゆっくりとていねいに生きて往きたい」と書かれていました。この言葉は、私が大切にしている言葉です。
私たちは、つい一生懸命頑張ってしまうことがあります。頑張りすぎてしまうと「なんで私だけが」とか、認めてもらえないときは「こんなに、頑張っているのに」と、つい愚痴(ぐち)になってしまいます。つまり、我を張ってしまうわけです。「我を張る」でがんばると読めますよね。そんな私に「もうがんばらなくていいよ。あなたはあなたのまま、そのままで」の呼びかけを聞くこと、そして「ゆっくりとていねいに」生きて欲しいと願われているのでしょう。
ネット社会の今、情報が多岐に溢(あふ)れております。そんな中を、ゆっくりしていると取り残されてしまう恐れを感じてしまいます。また、それにスピードが求められ、慣れてくるとぞんざいになってしまうんですね。そんな私に「本当にそれでいいんか」と立ち止まらせ「あわてなくてもいいよ」「あせらなくていいよ」と―。
あせらず、くらべず、あきらめず、ボチボチいきましょう。
成井 暁信氏
真宗大谷派 西教寺住職(奈良県)
「南御堂」新聞2021年12月号(難波別院)より
法話 2022 10
今は、自分に不都合なものを見ないようにして、そのことが身近な人だけでなく、世代間のつながりをも断っているように思います。
メールでのコミュニケーションが主流の世代では、直接会話することも避けられがちです。また、インターネット上にはさまざまな情報が氾濫しています。ネットは匿名で、自分は安全なところにいて、欲求を満たすことができるわけですから、欲望が曲がった形でいくらでも肥大していきます。つまり誰も見ていないから、何をしてもわからないし、相手の痛みも感じずにいられる。使う言葉さえ極端になり、身体性を喪失します。身体性というと難しそうですが、五感をとおして体に響く感覚です。もしも目の前に人がいれば自分の行動には責任が伴い、結果として誰かに影響を及ぼす種になると気づけます。これらが見えていないと、社会全体の感覚も歪んだままになっていくのではないでしょうか。
身体性をもったつながりを取り戻すには、直接の対話から始めるしかないでしょう。それにはまず、実際に声を発し、言葉を受け止め、そこから触発されたものを相手に渡すこと。それは心地良いことばかりではないかもしれません。けれども、対話が一番小さな単位の「社会」にもなります。身近な人と、日常や普段見ているものを話し合うことが特に大事です。私たちの声が集まって社会の声となり、やがては歴史をつくっていることに気づけば、不都合なことを見ないようにすることはできないと思うのです。
劇作家である私にできることは、他者の声や体験を聴き取り、それによって過去の時代や社会を演劇で再現することです。俳優の発するセリフ、身体表現が観客の体に響く時、失われた物語や祈りが、再びいのちをもって舞台に立ちあがるのです。
嶽本 あゆ美氏
劇作家・演出家
「同朋新聞」2018年5月号(東本願寺出版)より
著名人 2022 10