自分にとって思い通りにならなかったり、自分がその状況についていけなくなれば、「昔はよかった」と、過去を基準にして今を批判しますし、その逆に、「いつかは何とかなる」と楽観的に思うことで、自分をなだめたりもしています。しかし、実際の所、様々な問題に遭遇しながらも、それによって私自身の日々の生き方が変わったかと言えば、これまで通りに、ただ毎日を同じように時間の経過だけで終わらせているだけではないでしょうか。
その様な私たちの在(あ)り方は、本願寺第八代蓮如上人(れんにょ ※)が『御文(おふみ)』の中で「ただいたずらにあかし、いたずらにくらして、年月をおくるばかりなり」と教え、また、真宗大谷派の本多恵先生は「人は昨日にこだわり明日を夢見て今日を忘れる」とご指摘されるような内容の人生になっているのではありませんか。つまり、私たちの日々の生活は、「昨日はこうだったなぁ」と後悔しながらも、その後悔の中身を確かめないままに「明日はこうしよう」と期待ばかり膨らませています。しかし、私の身の事実は「今を生きている」以外にはありません。にも関わらず、その今を私たちは「昨日にこだわり、明日を夢見」る様な中身にしたり、逆に「今」ある事が当たり前で、しかも明日も明後日も同じように来ると信じています。それは、見方を変えれば、少しも今現在に立てずに、浮遊している事を意味していると思います。
考えてみれば、一生に一度しかないこの「今」という時を、私たちは余りにも当たり前にしながら、いつしかその大事さに気付かずに過ごしているのではないでしょうか。私たちは、いつも現状が悪くなれば過去に捕らわれるか、逆に未来に期待ばかりして、「今生きている」という事実に一度も真向かいにならずに生きているのでしょう。だからこそ、今ある事への感動もなければ、充実感もない、自分の身の問題にならないのだと思います。
人間は過去に戻ることは出来ません。そういう意味では、誰にとっても、二度と来ることのないこの「今」こそが、かけがえのない時であり、身が生きている事実そのものではないでしょうか。しかし、その大切さを見失い無駄に過ごしているところに、「今」という一瞬をいのちが生きていることを忘れて、自分自身を空しく終わらせようとしているのではないかと思います。
- 蓮如(1415~1499)
- 室町時代の浄土真宗の僧侶
『御文』(蓮如)
花山 孝介氏
真宗大谷派 遍崇寺住職(三重県)
ラジオ放送「東本願寺の時間」より
教え 2022 01
現代語の「邪魔」は「さまたげ。障害」などの意味ですが、仏教語としては「仏道修行をさまたげるよこしまな悪魔」を意味します。お釈迦さまが覚(さと)りを開く前に、「降魔(ごうま/魔を降伏させる)」がありました。悪魔がお釈迦さまに、いろいろな誘惑を仕掛け、覚りを邪魔しました。お釈迦さまが「降魔」されたのは、悪魔を敵として退治したのではありません。「魔の正体を見破られた」のです。魔の正体を見破れば、魔は魔のはたらきを失い、逆に仏道の助けとなります。お釈迦さまは、魔を向こうにいるものではなく、自分のこころが投影した幻だったと覚られたのです。
「魔」の意味は多岐にわたりますが、「煩悩(ぼんのう)」と同じ意味でも使われます。ところが、親鸞は「正信偈(しょうしんげ ※)」で「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」(煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)」と述べています。「煩悩」を、つまり「魔」を断ち切ることなく覚りを得るというのです。これが先程述べました、「魔の正体を見破る」という意味です。私を苦しめるものは、外に存在する悪魔ではなく、魔を恐れるこころが生みだした幻影だと覚ったのです。
そうなると、いくら魔が襲ってきても大丈夫です。もう魔が害敵としてのはたらきを失い、逆に、「魔を恐れる煩悩」をあぶり出してくれます。実は、煩悩を起こすのも自力ではできません。阿弥陀(あみだ)さんのお手回し抜きにして、煩悩ひとつも自分の意志で起こすことはできません。そうなると煩悩(魔)が起こるたびに、阿弥陀さんのはたらきを感じ取ることができます。煩悩は喜ばしいものではありませんが、私に〈真宗〉を教えて下さるために、なくてはならない大切な教材だったのです。
- 正信偈
- 正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)。真宗門徒が朝夕お勤めする親鸞が書き記した漢文の詩。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2022 01
毎年新年を迎えると、「今年こそは良いことがありますように」と心機一転を誓う声がよく聞かれます。「今年こそは」と自分を奮い立たせなければならないのは、昨年は思い描いた目標が達成できなかったからなのでしょうか? それとも、挫折の繰り返しだったからなのでしょうか―?
どうも私たちは、言葉を「良いこと」「悪いこと」と勝手に決めつけてしまっているところがあるようです。例えば「挫折」というと私たちは「悪いこと」というイメージが強いですが、「挫折」することが悪いのではないのでしょう。誰しも目標が達成できず、「挫折」することもあります。ただそれは、目標が達成できなかったことが悪いのではなく、そもそも目標設定に問題があったのかもしれません。時には、自分では頑張っているつもりでも、周りから見るとただの意地っ張りになっているだけということもあるかもしれません。
人生は「挫折」や「失敗」の繰り返しです。自分にとって振り返りたくないような経験でも、それがこの私を育ててくださったからこそ今の私になれたのです。「挫折は悪いこと」という思い込みから離れて、むしろそのような逆境から自分を見つめ直し、新たに歩んでいけばいいのではないでしょうか。
私が京都の大谷専修学院で仏教を学んでいた頃、ある学生が「人生こんなはずではなかった」と嘆いたことがあったのです。それを聞いた師が「こんなはずやったんや。あなたの身の事実を生きろ」とおっしゃった言葉が今でも忘れられません。
川村 妙慶氏
真宗大谷派僧侶・アナウンサー
「同朋新聞」2020年1月号(東本願寺出版)
「ミカタがカワル?」より
法話 2022 01
若いときは、仕事の悩みを家に持ち帰って眠れなくなったり、がむしゃらに頑張ったりしていたのですが、年齢を重ねることで力の抜き加減がわかってくるんですね。病気やつらい心理状況ゆえにこわばってこられる患者さんと向き合うのに、こちらもこわばるのではなく、いかに力を抜くかみたいなことは歳をとった人ほど長(た)けてくるのかなと思うと、歳をとるってまんざら悪いことではないなと思います。
人って自分でコントロールしなくても息をしていますよね。すべてを自分でコントロールしようと思わなくても生きていける。力を抜くっていうことで言えば、歌も相当力が抜けていないとできないことなので、音楽をするうえでも、医者として患者さんに接するときの心構えとしても、大切なことだと思っています。
アン・サリー氏
歌手・医師
真宗会館広報誌『サンガ』175号より
著名人 2022 01