僧侶の法話

言の葉カード

 古典落語で「厩火事(うまやかじ)」という話があります。ある夫婦の話で、旦那は年下で定職に就かず酒を飲んでばかりいて、奥さんは若くて大好きな旦那のために一生懸命に働いていました。ある時、奥さんが本当に旦那が自分を愛しているのか不安になり、仲人のおじいさんに相談をしました。そこで、旦那が大切にしている茶碗を奥さんが落として割った時に、どちらの心配をするかを確かめることになります。早速、奥さんは実行し、それを見た旦那は奥さんのことを心配しました。奥さんはとても喜び、「そんなに私のことが好きかい」と聞くと旦那は、「お前に怪我でもされてみろ、遊んでいて酒が飲めねえ」と、これがこの落語の下げです。

 この話に仏教は関係ないように思えますが、実はあるのです。旦那は奥さんではなく、自分を愛していた。それを仏教で「我愛(があい)」と言います。根本煩悩(ぼんのう)の一つで、私を愛する執着が苦しみのもとだというのです。そのことを仏教の言葉を使わずに語っているのです。
 私たちは、「我愛」と聞いても、なかなか頷けないかも知れませんが、落語で聞くと自分自身に思い当たる節があると見えてくるわけです。自分にしか関心がないという、それほど人間は狭く人のことが見えない。人の悲しみや喜びが分からないのです。だからこそ仏さまは、そういう私たちを目当てとし、お念仏(ねんぶつ)を与えてくださっているのです。お念仏によって仏さまと遇(あ)い、救われないといけない私であったと気づかせていただく。ですから、古典落語のお話は、そういう仏法(ぶっぽう)に繋がる門となるのです。
 落語の表面だけを聞くと笑い話ですが、下げを聞いた後の余韻があります。それは、「思い当たる節がある」ということなのです。

竹原 了珠氏
真宗大谷派 浄願寺住職(石川県)

「南御堂」新聞2020年12月号(難波別院)より
法話 2021 11