仏教の教えについて

言の葉カード

 私は保護司というボランティアをさせていただいております。不幸にして犯罪や非行に陥った人たちの、更正保護のお手伝いをさせていただくお役目です。その活動の中でも「仕事」について考えさせられることがたびたびあります。
 再犯を左右する条件の一つに、本人が仕事に就いているか、否かが、大きく関わってきます。そういう意味で、就労支援は処遇の中の大きなウエイトを占めます。経済的安定に加え、何よりも、仕事によって得られる達成感や、生きがいが人の心を安定させるのは間違いないようです。
 しかし、これがなかなか思うようにいきません。求人は決して多いとは言えず、本人の思うように職が見つからない人が大半です。やっと仕事に就いてくれたと安心するのもつかの間、「この仕事は、自分に向いていない」あるいは「私の思っていた仕事内容ではなかった」と、あっさり辞めてしまうケースも多いように感じます。雇う側も、正規雇用を避ける傾向が強いようです。厳しい競争社会、縁を断ち切ったり、断ち切られたりのなかで、自分の居場所を見失った人たちが、やり場のない感情を関係のない第三者に向けてしまうという、悲惨な事件が後を絶ちません。そもそも自分に合った仕事とは何なのか? と考えさせられます。

 自分に合った仕事のことを日本語では「天職」といいますが、英語では「calling」といい、神様から呼ばれているという感覚の言葉だそうです。自発的に出会うというよりも、神のお召しであると。仏教的にいえば「ご縁」ということでしょうか。
親鸞聖人が著された『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』のなかに、「今の時の道俗(どうぞく)、己(おのれ)が分(ぶん)を思量(しりょう)せよ」というお言葉があります。自分の分限を知り、出来ることと、出来ないことを見極め、そのまんまの自分を尽くすことで生きる道が開けるということです。縁によって生かされているいのちを信じ、自分の分限を尽くせば、それは自ずと自分を生かしてくださっている大いなるいのちに恩返しをしていることになるのだと。厳しい競争一辺倒の社会に埋没することなく、そこに、生きがいが生まれるということではないでしょうか。
 自分の囚われから解放されるお念仏(ねんぶつ)の世界がそこにあります。職を求める側にも、雇う側にも、現代を生きる私たちに生き方を問い直せとのご催促に思えてなりません。

『教行信証』(親鸞)

宮部 渡氏
真宗大谷派 西稱寺住職(大阪府)
ラジオ放送「東本願寺の時間」より
教え 2021 11