2021年霜月(11月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 私は保護司というボランティアをさせていただいております。不幸にして犯罪や非行に陥った人たちの、更正保護のお手伝いをさせていただくお役目です。その活動の中でも「仕事」について考えさせられることがたびたびあります。
 再犯を左右する条件の一つに、本人が仕事に就いているか、否かが、大きく関わってきます。そういう意味で、就労支援は処遇の中の大きなウエイトを占めます。経済的安定に加え、何よりも、仕事によって得られる達成感や、生きがいが人の心を安定させるのは間違いないようです。
 しかし、これがなかなか思うようにいきません。求人は決して多いとは言えず、本人の思うように職が見つからない人が大半です。やっと仕事に就いてくれたと安心するのもつかの間、「この仕事は、自分に向いていない」あるいは「私の思っていた仕事内容ではなかった」と、あっさり辞めてしまうケースも多いように感じます。雇う側も、正規雇用を避ける傾向が強いようです。厳しい競争社会、縁を断ち切ったり、断ち切られたりのなかで、自分の居場所を見失った人たちが、やり場のない感情を関係のない第三者に向けてしまうという、悲惨な事件が後を絶ちません。そもそも自分に合った仕事とは何なのか? と考えさせられます。

 自分に合った仕事のことを日本語では「天職」といいますが、英語では「calling」といい、神様から呼ばれているという感覚の言葉だそうです。自発的に出会うというよりも、神のお召しであると。仏教的にいえば「ご縁」ということでしょうか。
親鸞聖人が著された『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』のなかに、「今の時の道俗(どうぞく)、己(おのれ)が分(ぶん)を思量(しりょう)せよ」というお言葉があります。自分の分限を知り、出来ることと、出来ないことを見極め、そのまんまの自分を尽くすことで生きる道が開けるということです。縁によって生かされているいのちを信じ、自分の分限を尽くせば、それは自ずと自分を生かしてくださっている大いなるいのちに恩返しをしていることになるのだと。厳しい競争一辺倒の社会に埋没することなく、そこに、生きがいが生まれるということではないでしょうか。
 自分の囚われから解放されるお念仏(ねんぶつ)の世界がそこにあります。職を求める側にも、雇う側にも、現代を生きる私たちに生き方を問い直せとのご催促に思えてなりません。

『教行信証』(親鸞)

宮部 渡氏
真宗大谷派 西稱寺住職(大阪府)
ラジオ放送「東本願寺の時間」より
教え 2021 11

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「睡眠(すいみん)」は「眠くなる」という生理的な意味で使われます。仏教語の「睡眠(すいめん)」は生理的な意味もありますが、煩悩(ぼんのう)とも言われます。つまり眠くなれば仏道修行を怠ることにもなるからです。特に浄土真宗は仏法(ぶっぽう)を聴聞する教えですから、「睡眠」が課題になります。
 仏教の話を聞いていると徐々に眠気がやってきます。眠るのはよくないと分かっていても、知らず知らずに居眠りをしてしまいます。しかし昔から真宗門徒は、「仏法は毛穴から染み込むもんだ。たとえ眠ってもよい。ひたすら法座へ身を運びなさい」と言われてきました。眠気を悪いこととして排除するのではなく、眠気をも仏法の出来事へと転換するのが〈真宗〉です。
 「毛穴から染み込む」と言っても、実際に温泉の成分が染み込むように、毛穴から仏法が浸透するという意味ではないでしょう。これは譬喩(ひゆ)です。どういう譬喩かと言えば、仏法は意識よりも深いところで感じ取るものだということです。いわば意識よりも無意識に近いところに響いてくるものが仏法なのです。
 ですから、表層の意識では仏法が分からなくても当然なのです。むしろ仏法が分かったということのほうが危ないのです。たとえ居眠りをしてもよいのです。逆に言えば、居眠りという現象ひとつも自分でコントロールできないものであり、居眠りを引き起こしてくるものこそ仏法のはたらきだと教えるのです。つまり、居眠りという現象も、「他力」が表れるための具体的な教えだったのです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2021 11

僧侶の法話

言の葉カード

 古典落語で「厩火事(うまやかじ)」という話があります。ある夫婦の話で、旦那は年下で定職に就かず酒を飲んでばかりいて、奥さんは若くて大好きな旦那のために一生懸命に働いていました。ある時、奥さんが本当に旦那が自分を愛しているのか不安になり、仲人のおじいさんに相談をしました。そこで、旦那が大切にしている茶碗を奥さんが落として割った時に、どちらの心配をするかを確かめることになります。早速、奥さんは実行し、それを見た旦那は奥さんのことを心配しました。奥さんはとても喜び、「そんなに私のことが好きかい」と聞くと旦那は、「お前に怪我でもされてみろ、遊んでいて酒が飲めねえ」と、これがこの落語の下げです。

 この話に仏教は関係ないように思えますが、実はあるのです。旦那は奥さんではなく、自分を愛していた。それを仏教で「我愛(があい)」と言います。根本煩悩(ぼんのう)の一つで、私を愛する執着が苦しみのもとだというのです。そのことを仏教の言葉を使わずに語っているのです。
 私たちは、「我愛」と聞いても、なかなか頷けないかも知れませんが、落語で聞くと自分自身に思い当たる節があると見えてくるわけです。自分にしか関心がないという、それほど人間は狭く人のことが見えない。人の悲しみや喜びが分からないのです。だからこそ仏さまは、そういう私たちを目当てとし、お念仏(ねんぶつ)を与えてくださっているのです。お念仏によって仏さまと遇(あ)い、救われないといけない私であったと気づかせていただく。ですから、古典落語のお話は、そういう仏法(ぶっぽう)に繋がる門となるのです。
 落語の表面だけを聞くと笑い話ですが、下げを聞いた後の余韻があります。それは、「思い当たる節がある」ということなのです。

竹原 了珠氏
真宗大谷派 浄願寺住職(石川県)

「南御堂」新聞2020年12月号(難波別院)より
法話 2021 11

著名人の言葉

言の葉カード

 現代は強大な経済中心のシステムの中、労働力を使い尽くして利益を得ていくことが最優先されています。いまだにそういう社会なので、日本国憲法の自民党改憲草案の前文には、経済成長に資することが、国民の生き方であるということが書いてあるわけです。“経済成長のために私たちは生きているわけではない”と叫びたくなりますが、現に今、経済成長に資するために、時間をかけて食べるというプロセスを切ってもいいやと思わせるような、忙しい社会になっているんです。
 そう考えると、現代社会は、労働のために生きているというような、ひっくり返った社会であることに気づきます。
 おいしいものを食べて、おしゃべりをする、こんな面白いことはないのに、今はそれを限界まで削って、仕事をしています。でも、人間的であるならば、本当は働いている時間を惜しんで食べなきゃいけないんですよね。逆転した社会を考え直す必要性を感じます。
 それから私は、食卓は死者と生きている人との交流の場所だと思っているんです。なぜなら、まず食卓に上がっているものは全部死骸なので、生と死の交流の場ですよね。
 食卓はその場にいない者とのつながりを確認する場だとも思います。その場にいない者は、たまたま来ることができなかった人かもしれないし、亡くなった母親かもしれないし、親鸞聖人かもしれない。その不在な者を味わう場所というのも食卓の機能ですよね。お斎(とき)の場もそれに通じる願いがあるように感じます。

藤原 辰史氏
京都大学人文科学研究所准教授

「同朋新聞」2018年9月号(東本願寺出版)より
著名人 2021 11