「甘露」は飴の名前で有名ですが、もとは仏教語です。原語の意味は「不死」や、「神々が常用した不死を与える飲料」などで、古代中国では、天下泰平の瑞祥(ずいしょう)として天が降らせる甘いつゆを意味したようです。しかし、仏さまの説法は決して「甘い」ものではありません。人間が逃れることのできない「老・病・死」という現実を突き付けます。それがどうして「甘露」なのでしょうか。それは厳しい現実を、阿弥陀(あみだ)さんの慈悲に溶かされることにより、それをいただく人間が「甘露」のようだと受け止めたのでしょう。それは味覚の甘さではなく、まさに仏法(ぶっぽう)の味わい深さを譬喩(ひゆ)的に表現したのです。
話は変わりますが、以前、「仏さんとは何だ」と尋ねられたことがありました。それはお父さんの四十九日法要を勤(つと)めた息子さんからの問いです。息子さんは生前のお父さんとは折り合いが悪かったのです。ところが、四十九日法要を勤めたときに、息子さんから、「生きているときには親爺とうまくいかなかったし喧嘩もした。しかし、この頃は、親爺と喧嘩したこととか思い出せないんですよ」と聞かされたのです。そこで私は「仏さんとは、姿かたちは見えないけれども、そうやってお父さんとの諍(いさか)いや怨みを、スーッと取り去ってくれるものではないですか」とお話しました。
生前は親子共々に「煩悩(ぼんのう)」が邪魔をして、上手くいきません。しかし、どちらかが亡くなり人間から仏さんに変わると、「煩悩」が浄化され、まさに「甘露」の味わいへと変化していくのでしょう。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2021 04