教えの言葉を自己関心だけで聞いたならば、「出会いの縁は嬉しいけれど別れの縁は淋しいな、嫌だな」という感傷で終わってしまいます。感傷は教えではありません。
お釈迦さまは「縁起(えんぎ)の道理」を説かれました。すべての物事・事柄は縁によって起こる、すべては縁によってつながっている、と。私があなたと出会えたそのとき、あなたとの別れに涙する誰かがいる。出会いと別れ、喜びと悲しみ、相反するかのような出来事が同じ瞬間に起こるのは、私のはからいを超えたつながりの中を生きているから。
親鸞聖人の出家得度(しゅっけとくど)も、教えとの出遇(あ)いを求める反面、父や母との別れという悲しみと切り離して考えることができません。親鸞自身、法然上人(ほうねんしょうにん ※)との出遇い、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の念仏(ねんぶつ)との出遇いの背景に別れや悲しみがありました。その痛みを知る親鸞は、教えを求めて自身を訪ねる人びとのなかに別れや悲しみを感じていました。目の前にいる人を、弟子ではなくともに法を聞く縁をいただいた仲間として見ていました。
同じ瞬間に起こる縁は「出会いと別れ」ばかりではありません。私が目の前のいのちを守ろうとした瞬間、同時にそこから漏れるいのちを傷つけているという現実があります。例えるならば、植物を育てる際、ひとつの植物の成長を助けるために周りの草を、実を間引かなければならないことのように。
大切なものを守るため犠牲になっているものがある。見方を変えれば、あるものの犠牲によって、私が守ろうとしているものが保たれているのかもしれません。私は「つくべき縁をいただいた」いのちや事柄とだけ伴っているのではありません。すべてのいのちや事柄と「つくべき縁」「はなるべき縁」をいただきながら生きています。
- 法然上人(1133~1212)
- 日本の僧で浄土宗の開祖。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
『歎異抄(たんにしょう)』唯円
白山 勝久氏
真宗大谷派 西蓮寺副住職(東京都)
『サンガ』№154より
仏教語 2019 12
「刹那」という言葉を耳にすると、反射的に「刹那的な生き方」とか「刹那主義はダメだよ」と、否定的な言葉が連想されます。もとの仏教語としての「刹那」は「きわめて短い時間。瞬間。時間の最も短い単位」という意味で、決して否定的な意味合いはありません。まぁ仏教語は、だいたい世間では肩身の狭い思いをしています。言葉の本来の意味とかけ離れた意味で使われているのですから。辞書には「刹那主義=過去や将来を考えず、ただこの瞬間を充実すれば足りるとする考え方」とあります。
しかし、もとの意味に戻って考えれば「刹那主義」は、案外素晴らしい考え方だと思えます。言い換えれば「瞬間主義」あるいは「現在主義」です。「瞬間を本当に充実して生きる生き方」と言い換えてはどうでしょうか。「今(瞬間)だけよければ過去や将来はどうでもよい」という否定的な態度ではなく、「今(瞬間)がよくなければ過去も将来もよくならない」という積極的な態度です。私たちの生活の中で感じる「瞬間」が本当に充実しているとき、ひとは過去も未来も「瞬間」の中に包まれてあると感じられます。
たとえば素敵な音楽を聞いて感動している「瞬間」のなかにすべてがあります。それが実感される「瞬間」でしょう。その実感からさめてしまって、「今(瞬間)だけよければよいという考えはおかしい!」と批判するとき、人間は「考え」に呪縛されています。本当に「瞬間」が充実していれば、「瞬間」を成り立たせている過去も、そして未来も温もりをもって感じられるはずなのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
月刊『同朋』2003年1月号より
仏教語 2019 12
3人の息子を育てている頃、忙しい日が続いて食事の用意ができない事がありました。それで、その日は買ってきたお弁当で夕食を済ませることにしたのですが、お弁当を並べて「さあ! いただきましょ」と言ったとたんに、息子がシクシク泣き出したのです。息子たちの好物の詰まった、私の手料理よりもよっぽどおいしそうなお弁当なのに、息子にとってはそんな事よりも、母親からの愛情を受け取る大切な機会がなくなった淋しさの方が強かったのかもしれません。何とも切ない出来事でした。
祖母や母がしてくれたような丁寧な食事の仕度は、とても私にはできないけれども、「食」は身体だけでなく、心も育てることを子どもたちをとおして教えられたのでした。
では「食」と「餌(えさ)」はどこが違うのでしょうか。「餌」を辞書で引くと“鳥・獣・虫などの生きものを育てたり、捕えたりするための食物”とありました。「餌」というひびきからは、何かしら与える側の利益や都合が見え隠れするように思います。与える側の損得を超えて、相手を慈(いつく)しむ思いや願いが感じられません。しかし、そう思った時に、私が作るものは「食」なのか「餌」なのか。私は食べているものを「食」にしているのか「餌」にしているのか考えさせられます。
何年か前にこんな言葉に出あったことがあります。
今日カニを食べた
カニの一生を食べたんだなぁ
「おいしいか、おいしくないか」、「新鮮か新鮮でないか」。そんな事ばかりが気になって、食事を仏事からほど遠いものにしてしまっている私の姿を映し出してくれる言葉でした。
野菜にせよ、魚にせよ、肉にせよ、願い、願われて生まれ育ってきたに違いない、そのいのちをいただき、その願いを身に受けて、今・ここ・この身を生きている。その事実に向き合ったとき、「食」に対して厳粛(げんしゅく)に、また謙虚にならざるを得ません。
「食」を前にして、そっと手を合わせる、その習慣にまでなった仏さまの心を、私は子や孫に手渡しているのか、私の生きる姿勢が問われているのです。
三池 眞弓氏
真宗大谷派 明正寺(福岡県)
月刊『同朋』2017年10月号より
法話 2019 12
物事の「効率化」を図り、「合理的」に考えなさい―。職場や家庭など、あらゆるところで言われることですし、それを目指すのが当たり前となっている社会のように思えてなりません。そして、それが出来る人は必要とされ、出来ない人は必要とされないという「レッテル社会」ともいえるでしょう。レッテルに捉われた窮屈すぎる考え方は、時には人を蹴落とし、時には人を排除し、時には大切な人を傷つけることにならないでしょうか。
人間の歩みは前に進むだけがすべてではありません。時には下を向くこと、時には後ろを振り返ること、時には一歩立ち止まること…。
「急がば回れ」ということわざのように、回り道をしなければ見えない世界もきっとあるはず。急いでいたら、足元にある大切なことさえ見失ってしまいます。たまには空を見上げ、あなたらしい無二の人生を歩むことも大切では?
マハトマ・ガンディー
宗教家(インド)
著名人 2019 12