僧意工夫

迷走しながら思いを綴る 
お坊さんのエッセイ

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 「寺院の消滅!?」という見出しのネット記事をときどき目にします。お寺に身を置く者としては胸騒ぎを隠せず、次の瞬間には記事のタイトルをクリック。記事内容のおおよそと読んだ後の自分の心情は何となく想像できるものの、2ページ、3ページと結局は全てに目を通してしまいます。

 「寺ばなれ」「墓じまい」「無宗教」など、消滅ということに深く関係している現代の世相は、最近になって聞こえてきたわけではありません。時代とともに核家族化や少子化が進み、地域差はありますが、何世代にもわたって同じ場所に定住する、家を買わずにマンション住まいを選択するということもあります。実家には仏壇(お内仏)があっても、自宅にはないという方も多いのではないでしょうか。


 「手を合わせる機会が少なくなることは、人間の生き方にかかわる」ということを言われた方がいらっしゃいました。敬意、配慮、憶念、想像という目には見えない大切なことは、手を合わせることや手を合わせずにはいられないことからしか養っていくことができないのだと。

 あくまでも個人的な意見ですが、「手を合わせる時と場所の喪失」と「寺院の消滅!?」はいろんな意味で強く関連しているような気がします。
 「家制度が崩壊しているのにお寺の制度は昔のままで、時代にそぐわなくなっている」という記事も目にします。しかし、考え方や価値観が、生活スタイルとともに大きく変わってきたということはあるにせよ、「どうなるか」という未来ではなく「なぜあるのか」という過去を尋ねることが、お寺の未来に関わらず重要なことのように思います。
 話が飛躍したようでもありますが、冒頭の「寺院の消滅!?」という記事に対する胸騒ぎの背景がここにあります。


 過疎化や後継者の問題など、護持(維持)や運営の課題はお寺やその地域によって種々ありますのでここでは触れませんが、混沌とした現代を生きる私たちにとってお寺はどういう場所なのか。寺に身を置く私自身が、真っ先に考えなければならないトピックです。

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